法永寺史《その二十二》〜唯順院日宣上人について 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成25年6月5日号掲載)
法永寺史《その二十》で天明飢饉供養碑について記述しました。その中で、その供養碑を建立したのが当山第十二世日宣上人で五所川原出身であるということ、出生について詳しいことは今のところ不明ということを述べました。その後調査の結果、名前(字)は東善ということが分りました。当山の過去帳の中からB5版西洋紙にガリ版刷りの当山歴代に関して箇条書きに纏めた資料が見つかり、その中の日宣上人の項に「字は東善、飛嶋家出身とも又他国人とも言われる」と記述されておりました。何処の資料を写したものなのか、誰がガリを切ったものか一切不明ですが、貴重なものを発見したと内心喜んでいるところです。当山歴代のお上人が憐れんで資料を差し入れてくれたのかも知れません。
五所川原で生まれ縁あって弘前市本行寺第十三世唯善院日幸上人の門に入り、行学なって出身地法永寺の住職となった訳ですが、依然として姓即ち○○家出身なのか明確な記録が無く不明です。
当山の石碑を調べましたところ、凡そ高さ四十センチ、幅十八センチの小さな石碑が見つかりました。他は皆大型の石碑ですからまるで赤ちゃんのような石碑ですが、日宣上人の姓を調べる上での重要な資料になる可能性があります。表面には「唯順院日宣」、向かって左側には「当寺十二代 妙経寺十八世 飛嶋宇」と刻まれております。表面の日宣の下には恐らく「上人」の二字が、又飛嶋宇の下には「兵衛」の二字が刻まれていたと思われますが、下の部分は割れて紛失してしまったようで探しても見当たりません。
それらの刻字あったとすれば、紛失した部分は字の大きさから推量して高さ十センチぐらいだと思われます。日宣上人は妙経寺の住職になるや黒石法峠の法嶺院の復興に尽力しました。法嶺院に在院していた時、文政九年(一八二六年)十月十八日にたまたま宿泊していた行商人に殺められ無残な最期を遂げました(法峠鉞撃事件)。
この小さな碑は、遷化した日宣上人供養の碑であろうと思います。建立主(供養者)は飛嶋宇(兵衛)個人名であり個人的色彩が強く、このことから日宣上人と飛嶋家の所縁を伺うことが出来るかと思います。明和三年(一七六六年)正月二十八日の大地震で本堂・庫裏が崩壊しましたが、宇兵衛は明和八年(一七七一年)に総欅造りの七間に七間半の本堂と五間に八間の庫裏を新築寄進した大檀越であります。父五郎兵衛もまた法永寺の外護丹精に尽力された大檀越でありました。
飛嶋家と日宣上人の所縁を伺わせるもう一つの出来事があります。日宣上人が黒石妙経寺の第十八世の時、妙経寺に宗門中興の三師と言われる身延山法主重乾遠三師の御本尊の内、乾遠の二幅があり、重師の御本尊が欠けておりましたが、飛嶋三九郎家に重師のご本尊があることが判り、その寄進を檀家一統と共に願い出ております。
普通であれば宗宝級の御本尊ですから簡単には手放せない筈ですが、その願いに応えて、重師のご本尊を寄進しております。先の石碑と、ご本尊寄進の件などから考えますと、姓が飛嶋ではないにしても、日宣上人と飛嶋家とはかなり近い関係に在ったということは確認出来たような気が致します。
