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「寺報ぎんなん」に定期的に掲載されている法永寺院首日珖上人による「法永寺史」です。

法永寺史《その十八》〜妙持稲荷大明神について
(平成6年7月18日掲載)
法永寺史《その十九》
(平成19年6月15日掲載)
法永寺史《その二十》
(平成24年11月1日号掲載)
法永寺史《その二十一》〜天明飢饉供養碑について
(平成25年3月8日号掲載)
法永寺史《その二十二》〜唯順院日宣上人について
(平成25年6月5日号掲載)
法永寺史《その二十三》〜法永寺移転の時期について
(平成25年8月5日号掲載)
法永寺史《その二十四》〜昭和三十二、三年頃の状況について
(平成25年11月1日号掲載)
法永寺史《その二十五》〜現在の寺町は、昔は法永寺町だった
(平成26年3月8日号掲載)
法永寺史《その二十六》〜寺町の法永寺は子供の遊び場だった
(平成26年6月5日号掲載)
法永寺史《その二十七》~昭和二十五年頃の野藤上人、黒滝上人の思い出
(平成26年11月1日号掲載)
法永寺史《その二十八》~昭和二十八年~昭和三十一年頃の対馬敏文さんの思い出
(平成27年3月8日号掲載)
法永寺史《その二十九》~日本海中部地震について
(平成28年3月8日号掲載)
法永寺史《その三十》~日本海中部地震について ②
(平成28年11月1日号掲載)
法永寺史《その三十一》〜法永寺の梵鐘について(1)
(平成29年6月5日号掲載)
法永寺史《その三十二》〜法永寺の梵鐘について(2)
(平成30年6月5日号掲載)
法永寺史《その三十三》〜法永寺等身大鬼子母神の作者〈仏師森英之進氏〉ついて
(平成30年11月1日号掲載)
法永寺史《その三十四》〜当山三十世唯常院日謙上人について
(平成31年3月6日号掲載)
法永寺史《その三十五》~法永寺史を記述していて、いろいろと思うこと
(令和1年8月3日号掲載)
法永寺史《その三十六》〜三十一世妙心院日芳上人について
(令和1年11月1日号掲載)
法永寺史《その三十七》〜師父(三十三世日淨上人)の誕生の地を訪ねて・・その一
(令和2年6月5日号掲載)
法永寺史《その三十八》〜師父(三十三世日淨上人)の誕生の地を訪ねて・・その二
(令和2年8月3日号掲載)

法永寺史《その十八》〜妙持稲荷大明神について

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成6年7月18日号掲載)

当寺の妙持稲荷大明神は、宝暦3年(1753年)に京都の伏見稲荷大社本願所「愛染寺(あいぜんじ)」より神璽(しんじ)を受け勧請した稲荷であることについては、先に述べた通りであります。

今回は、当寺の妙持稲荷は、仏教的稲荷神であることについて述べたいと思います。

何故仏教的稲荷かというと、愛染寺(あいぜんじ)の初代住持「天阿(てんあ)上人」は真言宗の神照寺(長浜市)で剃髪得度した方で、真言密教による稲荷の行法を大成した行者であったからです。後に上人は、剃髪得度した神照寺の第11世住職となり、延宝2年(1674年)5月15日にこの神照寺において遷化しております。

法永寺が愛染寺から神璽を受けたのは、天阿上人が初代住持となってから120年も後のことですが、おそらくこの天阿上人の大成した仏教的稲荷を受けたものと思われます。ご神体として荼枳尼(ダキニ)像か、或いは、それを表したお札か、または、「稲荷社安鎮證書 本宮 愛染寺」と書かれた木札のようなものを受けたと思われます。しかし、当山の妙持稲荷大明神のご神体については今のところ不明ということにしておきます。もう少し時間をかけて調べてみたいと思います。

明治元年の神仏分離によって愛染寺は廃寺となり、これによって伏見稲荷大社は、仏教的稲荷と縁を切り、完全に神道的稲荷社となりました。したがって、現在の伏見稲荷大社の神道的稲荷のご神体と当山の妙持稲荷大明神のご神体は異なることになります。(次号へ)

法永寺史《その十九》

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成19年6月15日号掲載)

〈ぎんなん〉で法永寺史について記述したのは、平成六年七月発行の第二十八号、法永寺史《その十八》が最後でした。調べましたところ、その後の〈ぎんなん〉では法永寺史についての記述はありません。もし見つかったとすれば、後の編集者におかれましては、本号の《その十九》を、それに従って調整して下さいますようお願いいたします。

さて、《その十八》では、伏見稲荷社の愛染寺初代住持の天阿上人について述べております。そして、〈次号へ〉で終わっております。

平成六年は、法永寺新築事業スタートの年であり、この年の八月二十一日には檀家総会で事業計画案が正式に承認されました。当初の予算は、《寄付予定額調》の合計額を基礎にした「三億八千五百万円」でした。このような大事業スタートの年でしたので、以後、心のゆとりもなく諸般の事情もあり〈ぎんなん〉に法永寺史を記述はすることは途絶えました。

歴史を書く場合は、時間の前後に拘らず、先ずは身近な資料をもとに手当たり次第に纏めて置くことが大事ではないかと考えています。

 今回は、法永寺史とは直接関係ないようなものですが、私が五所川原小学校のPTA会長として活躍したこともあったということを、昭和五十八年九月十日発行の「五所川原小学校百十年史」の〈「五小百十年史」の発刊に寄せて〉を全文掲載し、史資としたいと思います。

〘この「五小百十年史」の発刊をもって、百十周年記念事業の総てを完遂することができました。記念事業の実施に当たり、温かい励ましとご援助を下さいました総ての方々、この事業に積極的にご参加下さいました総ての方々、企画、運営、執筆に携わった総ての方々に深甚の敬意と感謝の意を表します。優曇華の花は三千年に一度しか咲かないと言われますが、私は幸運にもその花に巡り会ったような、そんな気がいたします。事業遂行の中に多くの方々の「逞しい意欲」と「豊かな思いやり」に触れ、心を一つにした時のエネルギーの偉大さを知りました。

私事で恐縮ですが、昭和十六年、私は寺町の法永寺で生まれました。背が高い田茂と大木の銀杏と本堂の屋根の宝珠は、法永寺の象徴のようなものでした。田茂の木は、私が生まれる四年ほど前に、今の言葉で言えば公害=カラスが道行く人に糞を引っ掛ける=のために伐り倒されました。宝珠は昭和二十一年の大火で本堂と共に焼失しました。銀杏は、昭和三十二年、法永寺移転の際に切り倒され、森英之進氏作の五尺の鬼子母神となって法永寺に安置されております。

昔、法永寺の直ぐ西側が土手で、それに沿って雑木林があったそうです。毛内林とか権太林と言われるのがそれだと思います。記録を見ますと、毛内林には、田茂や柳や胡桃の木などが六千三百本も繁茂しておりました。その後それらの樹木が伐採されて、そこに住宅が建ち、村が町となり市となって発展しました。その代わり、薫風とか緑陰とか木下闇という言葉の生命が失われました。

児童の皆さん、皆さんが大人になったら市の到る所に木を植え林を造って下さい。そして、その中で子供たちをウサギやキツネやタヌキと一緒に遊ばせて下さい。そうしたらきっと、その子供たちも大人になったら林を造ることでしょう。そして、その子供たちの子供たちを林の中で遊ばせることでしょう。その林の中で遊んだ子供たちは、自分の幸せだけでなく生あるもの総ての幸せを考える大人になるでしょう。そうなることを祈って発刊の挨拶といたします。〙

法永寺史《その二十》

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成24年11月1日号掲載)

法永寺史を書き始めたのは昭和六十三年八月八日発行の「ぎんなん」第三号からで、途中紙面の都合で八回ほど休みましたが、「ぎんなん」第二十八号に《その十八》を記載、その後、法永寺全面新築事業等があり多忙に任せ「ぎんなん」第百号まで法永寺史の記載を中断してしまいました。第百号の「あとがき」に記しましたように、百一号からは、「ぎんなん」編集を全て副住職に委ねることにしましたので、重荷を降ろしほっとしていたところに、副住職から法永寺史を連載して欲しいという要望がありました。少しばかり億劫でしたが、「ぎんなん」発刊当初に連載した法永寺史が《その十八》以降中断していることもあり、途中で投げ出す訳には行かないだろうという変な義務感みたいなものも感じ、法永寺史を連載することに致しました。

私ももう後期高齢者、何時この世とお別れすることになるか分りませんので先ずは、私が今書いておかなければ恐らく後世その由緒が分らなくなるだろうという事から書き始めたいと思います。当山稲荷堂の中央の稲荷大明神に向かって右側に薬師如来を祀っております。この薬師如来の由緒について書いてみたいと思います。

小さなお厨子に薬師と記し、お祀りしたのは師父で、その御本体は黒い金属製の小さな牛で、大きさは、横たわった頭部から尻尾までの長さは約九センチ、基壇に接する腹部から背骨までの高さは約三センチ、頭頂部までは約五センチです。お厨子の中に「牛頭天王」と記した木札があり、その裏に「昭和三十二年八月三十一日・正中山相承一道院日浄」と記してありますので、正確にはこの日から祀ったということになります。

さて、この金属製の牛の由緒ですが、私の母(すゑ)の母(新和村・永野さよ)が、正確な年月日は不明ですが、弘前駅で汽車を待っていた時に、見知らぬ毛むくじゃらのボロを着た男が近寄ってきて突然「これオメニやるから、大事にへ!」と言って白い布に包んだ物を手渡して、去って行ったそうです。直ぐに振り返って見廻しましたが、消え去ったようにもうその男の姿は見えなかったそうです。中を見たら真黒な金属製の牛で何が何だか訳が分らずただ茫然としていたということです。そのまま家に持ち帰りましたが、その牛をどのように扱ったらよいのかさっぱり分からず困惑したということです。

村の〈おがみや〉(霊媒・占い等をする人)に聞いたところ「これは病気を治す牛仏様でねべが?」と言ったそうです。そこで、近所に長年病気で苦しんでいる人がいるので、行ってその牛で撫でてやると不思議にも病気が治り、評判になり、病気で苦しんでいる人が次から次と尋ねて来て、その後何年経過したか分りませんが、多くの病める人を救いました。商売ではありませんので、祖母はお礼を一切受け取らなかったということです。評判を聞いた〈おがみや〉がその牛を譲ってくれと言って粘るのでどうにもならず譲ったそうです。

しかし、その後何があったのか知りませんが〈おがみや〉が牛を返しにきたそうです。理由を聞きましたが何も答えなかったということです。このようなこともあり、師父が身延山寒壱百日の大荒行第四行(四回目=四百日)を成満した昭和三十二年に、その不思議な牛が師父の許に来ることになり、牛頭天王と命名され開眼されることになるのです。

以上は、母から聞いたことを記憶を辿りながら記述したものです。母亡き今、詳細を語れる人は誰もいません。母が急逝するとは思ってもおりませんでしたので、結局は詳細を聞く機会を逸してしまったことになります。残念ですがもうどうしょうもありません。

法永寺史《その二十一》
〜天明飢饉供養碑について

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成25年3月8日号掲載)

 当寺山門右側に「南無妙法蓮華経」と謹刻した大きなお題目の石碑があります。門前の目に触れやすい場所にありますので、檀信徒の皆様には既にお気付きのことと存じます。

この石碑が建立されたのは当山十五世(日侃上人)の代で、建立主は曾て当山十二世を勤めた日宣上人でした。石碑建立時の文化二(一八〇五)年は天明三(一七八三)年大飢饉のちょうど二十三回忌に当たり その供養のために建立したもので郷土史の貴重な研究資料となっております。

日宣上人は宝暦八(一七五六)年に五所川原で生まれ(誕生月日や地番、姓名については、今のところ不明です。特に「姓」は歴史的に重要ですので調べてみる必要があると思っております。)、弘前本行寺十三世日幸の門に入り、縁あって法永寺に入山、その後寛政六(一七九四)年に妙経寺に入山、文化十四(一八一七)年に黒石法嶺院に入院、法嶺院の再興に尽力し、中興開山となっております。誠に残念無念なことでありますが、文政九(一八二六)年十月十八日、参籠者に殺められ不慮の最後を遂げました。世寿七十一歳でした。

天明の飢饉は、天明二(一七八二)年から天明四(一七八四)年まで続き、被害の大きかったのは天明三年の飢饉でした。天明三年の大飢饉は、上人二十七歳の時ですから、悲惨極まりない地獄のような惨状を目の当たりにし、あるいは又餓死病死者の中に親類縁者知人等がいたかも知れません。このような由縁で石碑建立当時は法嶺院の住職ではありましたが、法永寺に飢饉供養碑を建立したものと推量されます。

津軽地方の天明大飢饉の惨状を記した日記を故豊島勝蔵先生が解読され、昭和五十五年「津軽の飢饉史」として出版されました。この本から惨状のほんの一部を紹介し、飢饉供養碑の解説とさせていただきます。

天明二年秋「田畑不作、郡内平均四部作」、天明三年旧二月八日「岩木山噴火、世人恐怖。」、旧十月「愛児を殺して食う者もでる。道路の犬、人肉を食い朱に染まり歩行する。その犬を餓人が刀をもって切殺して食う。当月中の餓死倒死者三〇八七人。」、旧十一月「死骸は犬や鳥の餌となり、大路小径に死人のない所はなく、白雪は紅に変じ、臭気は大道にふんぷんしている。犬は人を食いなれ、夜中往来の人に犬がつきまとう有様であった。当月中の飢倒死人三六二二人。」旧十二月「極寒、雪降り。百石町川端所々橋の下には死人の薦包が畳々と積み重なっているし、その死骸を犬鳥が引き出し、臓腑を破り、眼を抜き、黒色の鳥が赤い鳥のようであり、犬の面はことごとく赤く、家々の門前へ人の手足または首を引いてくる。その有様を、初めははなはだ怖しく、いやいやしく見ていた人も、後には見慣れ過ぎて、小児もこわがらずに忍び廻り、夜中往来も薬王院その外の薮の内には死人の上を渡り歩くほどになった。楽田、家調、繁田辺の下通りの者は人の肉を食った。出崎の源次郎女房は、十四五歳の男子が餓死したのを女二人で四五日間食ったそうだ。」等々。

豊島先生の序文から引用させていただくと、天明三年の大飢饉は、「津軽一円皆無作、藩の執政者たちによる失政、疫病蔓延、全国的な飢饉のため救米もなく、死者無慮十万人といわれ、餓死者累々として道をふさぎ、云々」

法永寺史《その二十二》
〜唯順院日宣上人について

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成25年6月5日号掲載)

法永寺史《その二十》で天明飢饉供養碑について記述しました。その中で、その供養碑を建立したのが当山第十二世日宣上人で五所川原出身であるということ、出生について詳しいことは今のところ不明ということを述べました。その後調査の結果、名前(字)は東善ということが分りました。当山の過去帳の中からB5版西洋紙にガリ版刷りの当山歴代に関して箇条書きに纏めた資料が見つかり、その中の日宣上人の項に「字は東善、飛嶋家出身とも又他国人とも言われる」と記述されておりました。何処の資料を写したものなのか、誰がガリを切ったものか一切不明ですが、貴重なものを発見したと内心喜んでいるところです。当山歴代のお上人が憐れんで資料を差し入れてくれたのかも知れません。

五所川原で生まれ縁あって弘前市本行寺第十三世唯善院日幸上人の門に入り、行学なって出身地法永寺の住職となった訳ですが、依然として姓即ち○○家出身なのか明確な記録が無く不明です。

当山の石碑を調べましたところ、凡そ高さ四十センチ、幅十八センチの小さな石碑が見つかりました。他は皆大型の石碑ですからまるで赤ちゃんのような石碑ですが、日宣上人の姓を調べる上での重要な資料になる可能性があります。表面には「唯順院日宣」、向かって左側には「当寺十二代 妙経寺十八世 飛嶋宇」と刻まれております。表面の日宣の下には恐らく「上人」の二字が、又飛嶋宇の下には「兵衛」の二字が刻まれていたと思われますが、下の部分は割れて紛失してしまったようで探しても見当たりません。

それらの刻字あったとすれば、紛失した部分は字の大きさから推量して高さ十センチぐらいだと思われます。日宣上人は妙経寺の住職になるや黒石法峠の法嶺院の復興に尽力しました。法嶺院に在院していた時、文政九年(一八二六年)十月十八日にたまたま宿泊していた行商人に殺められ無残な最期を遂げました(法峠鉞撃事件)。

この小さな碑は、遷化した日宣上人供養の碑であろうと思います。建立主(供養者)は飛嶋宇(兵衛)個人名であり個人的色彩が強く、このことから日宣上人と飛嶋家の所縁を伺うことが出来るかと思います。明和三年(一七六六年)正月二十八日の大地震で本堂・庫裏が崩壊しましたが、宇兵衛は明和八年(一七七一年)に総欅造りの七間に七間半の本堂と五間に八間の庫裏を新築寄進した大檀越であります。父五郎兵衛もまた法永寺の外護丹精に尽力された大檀越でありました。

飛嶋家と日宣上人の所縁を伺わせるもう一つの出来事があります。日宣上人が黒石妙経寺の第十八世の時、妙経寺に宗門中興の三師と言われる身延山法主重乾遠三師の御本尊の内、乾遠の二幅があり、重師の御本尊が欠けておりましたが、飛嶋三九郎家に重師のご本尊があることが判り、その寄進を檀家一統と共に願い出ております。

普通であれば宗宝級の御本尊ですから簡単には手放せない筈ですが、その願いに応えて、重師のご本尊を寄進しております。先の石碑と、ご本尊寄進の件などから考えますと、姓が飛嶋ではないにしても、日宣上人と飛嶋家とはかなり近い関係に在ったということは確認出来たような気が致します。

法永寺史《その二十三》
〜法永寺移転の時期について

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成25年8月5日号掲載)

法永寺が寺町より現在地に移転したのは何時ですか?と問われることがあります。私は「昭和三十二年だと思います。」と答えるようにしています。しかし、もう五十五年も昔のことですから、今になっては記憶も曖昧で何月何日に移転しましたと明確に答えることはできません。

昭和三十二年の春に私は高校に入学しましたが、入学時の四月はまだ寺町に住んでいたような気がします。末広町の仮の粗末な住宅に移ったのは五月末頃ではなかったかと思います。平浪家の一部解体前の写真や現在地の本堂等建築工事の写真は三十枚弱残っておりますが、残念ながら写真には撮影日が印字されておらず日時の特定ができません。

このような状況ですから、年月を特定する方法として残されたのは移転の為の各省庁への届出書等を参考にするということです。各省庁への届出書等に添付した《法永寺移転理由》には「法永寺移転問題は、昭和十九年五所川原大火直後に話が出たのであります。町役場では、町の真ん中に寺及び墓のあることは風致上公衆衛生上及び町発展上好ましからずとされておったのであります。その期を得ず今日に到ったが昭和三十一年六月市当局が都市計画委員及び商工会議所幹部学識経験者等三十名を以て五所川原市商店街整備都市計画審議委員会を設立し第一次事業として法永寺移転を計画したのであります。条件として一、新敷地二反一畝十九歩(約六五一坪)斡旋。土盛及び墓移転。二、旧敷地売却斡旋。等により移転することに決定。法永寺としては総会を開き、別紙議事録の通り墓及び寺の移転を決定したのであります。」とあります。「風致上公衆衛生上及び町発展上好ましからず」とは、市或いは商工関係者の何と自分勝手な言い分でしょうか。腹立たしい限りであります。しかし、法永寺住職役員としては法永寺を建立したいという一心から已むに已まれずこの案を受け入れたものと思います。移転すべきか止まるべきか師父もさぞ悩んだことでしょう。

日蓮宗代表役員増田日遠より境内地及び墓地区域変更の承認がなされたのは昭和三十一年十月二十日で、知事の農地転用許可が下りたのは昭和三十一年十一月二日、墓地経営許可が下りたのは昭和三十一年十二月一日、また五所川原市長の遺骨改葬許可が下りたのは昭和三十一年十二月十四日でした。また、日蓮宗代表役員より本堂、庫裏、書院の新築承認がなされたのは昭和三十二年八月二十九日でした。これより推するに、農地転用許可が下りた後に土盛等が行われ(昭和三十一年十一月初旬から十二月中旬頃までか?)、盛り土を一冬寝かせた後、昭和三十二年三月彼岸過ぎから墓の移転工事に取り掛かったのではないでしょうか。

本堂等の建物は新築承認後でなければだめですから工事に取り掛かったのは昭和三十二年九月からだろうと思います。本堂等の新築の前に五月末頃には寺族が住む仮の住宅(寺町の庫裏の一部を移築)が建てられ(現在の本堂の裏手堰渕)寺族が移り住んだように思います。曾祖母はこの年の十二月二十九日、まだ完成していない本堂に向かって右側の庫裏の一室で八十七歳の生涯を閉じました。この頃の詳しいことは次回に述べますが、大まかには、寺町より現在地に移転したのは昭和三十二年ということで間違いはないと思います。次回に続く。 

法永寺史《その二十四》
〜昭和三十二、三年頃の状況について

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成25年11月1日号掲載)

前回は法永寺が寺町から現在の末広町に移転した時期について述べました。

昭和三十二年頃の現在地はまだ周囲が田圃で仮住宅の裏西側の堰は用水路で水が満々と流れておりました。私と弟(博・昭和十九年一月生)はその堰で雑魚捕りをしたり、田螺や烏貝を捕って遊んでいました。カエルも沢山いました。本堂正面東側の道路も未完成で砂利道でした。
水道も敷設されておらず本堂裏西側の旧道に面した民家に畦道を通って水をもらいに行っていました。私は手伝った記憶がありませんので、水貰いは恐らく母の仕事だったのでしょう。今思うと両親、取り分け母親は炊事洗濯等ではかなり苦労したことだろうと思います。

周囲は田圃だったので秋になるとイナゴが沢山飛び回り私と弟はそれを採り広口瓶に入れ勇んで母に渡したものでした。それは一日置いて糞尿を排泄させた後に、母の手で佃煮となり家族で食べたものでした。一番末っ子はまだ二歳半ぐらいで、まだオシメを当てていたようで、母はそのオシメを堰で洗っておりました。移転して一、二年は苦労の連続であったと思います。

昭和三十二年春に私は弘前高校へ入学し、伯母さん(母の姉)の家に下宿しましたので、日々の苦労の実感等はあまりありませんが、弟(博)や妹(和子・昭和二十二年一月生)は父の手伝いや母の手伝い等で苦労しただろうと思います。特に妹は母が軽い蜘蛛膜下出血で倒れた(昭和三十一年頃か?)こともあり直ぐ下の弟(隆・昭和二十四年四月生)の面倒や、末っ子(典弘・昭和三十年三月生)の面倒を看たり、又炊事洗濯等で大変だったと思います。母は生前和子には苦労をかけたと言っておりました。

前回述べましたが、昭和三十二年八月お盆過ぎには資材の運搬等が始まり、九月には本堂等の工事に取り掛かりましたので建築関係者の行交で騒がしくなりました。この頃に弟(博)は大工の使い走りをして大活躍をしておりました。昔の大工はよく〈砥の粉〉を使ったようでそれを買いに行くのが弟の役目でした。母生前の話ですが、大工が「博!」と呼べば「砥の粉がぁ!」と返事したそうです。干支と性格は何も関係ない筈ですが、申年生まれの弟は本当の猿のように身の軽い愛敬者だったようです。

工事の俊工、引き渡しは昭和三十三年で間違いないのですが、正確な月日が判りません。当時の山崎岩男県知事に登録税免除申請をして、免除に該当すると証明されたのは、昭和三十三年十月二十三日ですから、この時には既に竣工していたことになります。しかし、整備しなければならない細々した個所は一杯あったと思います。また、落成式を何時行ったかについても、今のところ資料がなく不明です。この次はこれらのことについて調べ述べてみたいと思います。

法永寺史《その二十五》
〜現在の寺町は、昔は法永寺町だった

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成26年3月8日号掲載)

前回は寺町から現在地に移転した時の現在地の状況を述べました。今回は字数の制限もありますので話を前に戻して寺町という町名について簡単に触れてみたいと思います。「寺がないのに何故寺町というのですか」と質問した方がおられました。私は、「ああそれは、法永寺があったからですよ」と答えるようにしています。

「他のお寺もあったのでしょうね?」「いや、法永寺一か寺だけです。」「それでは法永寺一か寺のために付けられた町名のようなものではないですか?」「まあ、そのようなものです。」現在の寺町は、明治初年頃には、法永寺町、法永寺通り、法華寺町、と呼ばれていたようです。(角川地名大辞典・青森県) 尤もなことです。元禄二年(一六八九年)には既にその地に法永寺があったわけですから、その当時から恐らくその辺りが法永寺通りとか法永寺に因んだ名前で呼ばれていたに相違ありません。

因みに明治初年の他の寺の住所を調べて見ますと、龍泉寺は喰川村蝉ノ羽に、玄光寺は平井村鶴野に、願昌寺は喰川村蝉ノ羽に在りました。寺名が地名になったのは法永寺だけです。寺町は、紛れもない「法永寺町」だったのです。それにもう一つ、旧市内の寺院で一番歴史の古いのは法永寺なのです。

法永寺史《その二十六》
〜寺町の法永寺は子供の遊び場だった

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成26年6月5日号掲載)

前回に続き寺町時代の法永寺について触れてみたいと思います。

法永寺は寺町六十六番地にありました。もう少し正確にいいますと北緯四十度四十八分三十九秒、東経百四十度二十六分二十七秒の場所であります。そこに山門と板塀、山門の西袖塀内側に鐘楼堂、そして山門正面には茅屋根の本堂、その東側に棟続きの庫裏がありました。昭和十六年九月一日に金属類回収令が施行されるまでは、その鐘楼堂には鐘楼がありましたが、回収令が廃止される昭和十八年八月十二日までの間に鐘楼は回収され(年月日不明)、鐘楼堂だけが残ったものと思います。

まだ記憶に新しいことですが、五所川原は二回の大火に見舞われました。一回目の大火は、昭和十九年十一月二十九日午前零時三十分ころ上平井町木工所から出火、風に煽られた猛火は七百二十三戸を焼き尽くし翌日の午前六時ころ鎮火しました。この大火で周囲が焼失したにも関わらず不思議にも法永寺は延焼を免れ、「神仏のご加護があった」と町中の噂になったということです。大戦末期の物資不足の時でしたから被災者の苦労は大変なものであったろうと思います。

追い打ちを掛けるように、昭和二十一年十一月二十三日午後七時三十分ころ錦町の一角から出火、強風に煽られて火勢が拡大し、翌日午前三時ころまでに八百十四戸を焼き尽くし鎮火しました。

この二回目の大火で法永寺の庫裏本堂等が全焼しました。私はまだ五歳でしたので当時の状況は定かではありませんが、未だに記憶に残っているのは、道路が熱風の通り道となりその中を熱い熱いといって岩木川の河原に避難したことと、母の実家のお祖母さんが持ってきてくれたおにぎりの美味しかったことぐらいです。 下って小学校二、三年ころからのことはよく覚えております。その当時は法永寺境内が子供たちの遊び場でした。親たちは「こら!おめだぢここさいれば邪魔だ!、寺さ行って遊んでろ!」と怒鳴っていたものです。

焼け残ったのは題目石と墓石と境内北の奥にあった銀杏の大木だけでした。その銀杏の大木も半分ほど焼けてケロイド状になっていました。境内地中央が少し高くなっていてそこに本堂の基礎石が残っていました。全て格好の遊び場でした。特に身の軽い子供たちは銀杏の木に登り、そこにまるで鳥が巣を作るように小屋を作り、そこから下にロープを垂らし、上り下りしておりました。

この銀杏の大木で作ったのが法永寺本堂に奉安されている等身大の鬼子母尊神であります。子供たちが小屋を作っていた辺りが鬼子母尊神の頭辺りだったかも知れません。ロープを揺らし「アーア・アー」といって蹴飛ばした辺りがお腹だったかも知れません。

それぞれの遊びにはいろいろ危険が伴っておりましたが、子供たちは各自で気をつけながら工夫を凝らし遊んでいたような気がします。何せ親はその日その日の生活の糧を稼ぐことだけで精一杯、子供たちに構っている暇などなかった時代ですから子供たちは子供たち自身で自分の身を守らなければならなかったのです。

子供たちの遊びに関しては大目に見ていた父(三十三世)ですが、墓で遊ぶことだけは禁止しておりました。しかしズルスケの子供たちは墓の竿石の上に登ったり竿石を揺らしたりしてまともに見ていられないほど危険極まりない罰当たりな遊びをしておりました。〜次号へ続く

法永寺史《その二十七》
~昭和二十五年頃の野藤上人、黒滝上人の思い出

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成26年11月1日号掲載)

前回に続き寺町時代の法永寺について触れてみたいと思います。

二十五年九月頃、私が小学校三年(当年十歳)の時、師父(三十三世)の許で修学するために鶴田町の黒滝さん(昭和八年七月生まれ。当年十七歳)が法永寺に来ました。

大火で全焼した後の粗末な本堂兼住宅で父母、曾祖母(トヨ明治四年生まれ。当年八十歳)、私の弟(博小学一年)、妹(和子三歳)それにまだ一歳の弟(隆)の七人家族と黒滝さんの計八人が暮らすことになりましたので可なり窮屈な生活状況でした。住宅に隣接して三十二世の後妻樋口サキさんの仮住居がありましたが思い出がありませんので省略します。

大火後四年目、それにまだ敗戦の影が残っている時代でしたから、八人の家族を養う父母の苦労は並大抵のものではなかったと思います。本堂(御宝前側十畳間+前方十畳間の内玄関前は板敷き)の両脇にそれぞれ二間(各八畳間?)あり本堂右側の和室は父母の部屋で、手前の和室には箪笥等家具が置いてあったように思います。本堂左側の奥の和室が祖母の部屋で、その和室に曾祖母と私と弟妹が寝ました。和子は曾祖母と一緒に、私や博はその隣に布団を並べて寝ていました。手前の部屋が板の間で流しやトイレがありました。風呂はありませんでした。

野藤さんと黒滝さんは本堂御宝前の前に寝ていました。野藤淳亮さん(明治三十二年生まれ。当年五十二歳・お経が上手で僧侶としての行軌作法のしっかりした方でした。病気で両足脛を切断、皮製の義足を履いていました。昭和五十二年三月二十一日逝去、行年七十九歳)は、ずっと以前から法永寺の手伝いに来ていた方で、ご長男は三十二世の弟子で後に大曲市覚善寺の住職になりました。住宅は市内漆川でしたので通いも出来たと思いますが法永寺に寝泊まりすることが多かったようです。野藤さんは毎晩義足を枕元に並べて寝ていました。私はその両足の義足が気持ち悪くて近づくことも出来なかったように記憶しています。私や弟妹は野藤さんのことを「オドチャ」と呼んでいました。

この頃の思い出を黒滝さんに聞いてみました。曖昧なところが多く正確さに欠けるようにも思いましたが一応記録しておきたいと思います。

夕食は折りたたみ式の丸いテーブルで野藤さんも入れて九人(一歳の隆を含む)で一緒に食べることが多く、師父の晩酌は焼酎だったそうです。師父は映画が好きで月に一回は家族皆で映画を観に行ったようで(私には家族で映画を観た記憶がありません。)、黒滝さんの記憶では誰かをおぶって行ったということです(和子か隆かどっちかでしょう)。誰かをおぶって行ったということですから本当かも知れません。

黒滝さんは坊さんになるのが嫌で中学を卒業すると直ぐ知り合いの農家の手伝いに行ったそうです。そこで一年程働き、酒やタバコを覚えたということです。しかし法永寺では師父の前で酒やタバコを飲む訳にもいかずそれは苦しかったということです。

ある時、師父の留守の時、掃除中に一升瓶を見つけたのでその一升瓶に口を付け一気に飲んだらそれが酢であったということ。喉が焼けるような七転八倒の苦しみだったそうです。十七歳で強制的に法永寺の小僧に出された訳ですからさぞ辛かったことでしょう。

師父や有縁寺院の勧め等もあり、昭和二十七年三月法永寺を辞し上京、堀之内妙法寺の随身となり夜間の堀之内高校、夜間の立正大学を卒業し、日本橋の身延別院等に務め、父親(正法寺住職日教)遷化後、昭和三十六年九月に正法寺の住職になり名を日静と改め、寺観を一新する等々為宗為法に精進し現在に至っております。

法永寺史《その二十八》
~昭和二十八年~昭和三十一年頃の対馬敏文さんの思い出

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成27年3月8日号掲載)

 前回の記述で誤りがありましたので先に追加訂正し、続けて対馬さんについて述べたいと思います。前回「本堂左側の奥の部屋が祖母の部屋で・・手前の部屋が板の間で流しやトイレがありました。」と述べましたが、対馬さんの記憶によると、「手前の部屋は畳敷きで、その左側(西側)が東西に長い板敷きとなっていて、東の奥の方、北角にトイレがあり、西手前の方に北に面して流しがあったということです。そして、流しの西側に土間があり、それが勝手口となっていたということです。そう言われればそのような気がします。

また本堂兼住宅の南西に井戸小屋があったということです。この井戸については私もはっきりした記憶があります。木の上の巣から落ちたカラスの赤ちゃんを拾って遊んでいたら数羽のカラスの総攻撃に遭って頭を突かれ出血し、やっとのことで逃げ込んだのが井戸小屋でしたから痛みを伴う記憶と言うところで先ずは間違いありません。追加訂正しお詫び申し上げます。

ただ、対馬さんが来た時には、すでに樋口サキ(三十二世後妻)さんがおりませんでしたので、昭和二十六年前後に北側に隣接して住んでいた樋口さんの住宅を解体すると共に、一部を改造し利用した可能性があります。しかし、その辺のところは全く記憶にありませんので住宅の間取り等についての詮索はこの辺で筆を置きたいと思います。

さて対馬敏文さんですが、弘前市出身で、幼少のころ父を亡くし、その後に母も逝き、叔母さんの許で暮らしておりました。その叔母さんは、毎年欠かさず身延山にお参りし、もちろん家に在っても朝夕にお題目を唱えるという熱心な日蓮宗信者でありました。対馬さんが中学卒業する頃、伯母さんは対馬さんを坊さんにしたいということで、菩提寺の弘前市本迹院ご住職に相談されたようです。そのようなことがあって本迹院ご住職の紹介で私の師父の許に来たようです。

対馬さんは昭和二十八年三月に中学を卒業し、その年の四月に法永寺に来ました。年齢は十六歳でした。そして昭和三十一年二月頃まで師父の許で修業することになります。本堂や各部屋の掃除、境内の掃除、草取りは勿論、お経、仏事所作、塔婆の書き方等々を学びました。十六歳~十七歳頃の自由を謳歌したい対馬さんにとっては辛い毎日であったろうと思います。

一月の寒中には師父、檀信徒と共に団扇太鼓を叩きながら寒修行もしていました。師厳道尊、行学に励みましたが、生来の物造りへの夢が絶ち切れず、期するところがあり、昭和三十一年三月に上京、東京の専修技術学校に見事合格、卒業後土木系の会社に就職、働きながら各種国家試験に挑戦、忍耐と努力の甲斐あって、都市計画宅造設計、測量、建築施行管理一般、土木施行管理、消防設備点検、造園工事、管工事、屋外広告士、浄化槽設計等々の各種資格を取得しました。帰青後、昭和五十四年三月に三戸郡五戸町にエンジニアリング八州コンサルタントを結成、その後事業も順調に進み、昭和六十一年八月に有限会社八州コンサルタントを設立しました。

紙数の関係で話は法永寺に戻りますが、平成四年七月二日、私は、師父から法灯を継承し住職になりました。その時、私は法永寺全面新築の大願を発てました。そして平成五年の春に総代役員各位にその旨を伝えました。その事業費は概算三億円ぐらいになりますので総代役員の皆様にはなかなか賛同いただけないのが実状でした。実現が危ぶまれる程の大事業でしたので責任の重さを感じ辞任される総代さんもあり、なかなか順調には進みませんでした。

このような困難な状況の中で総代としてリーダーとして力になってくれる人はいないものかと思案しておりましたところ、ふと閃いたのが対馬敏文さんでした。平成五年十月ごろ、私は早速連絡を取り五戸の対馬さんの自宅に駆けつけ現在の状況を説明して総代就任の依頼をしましたところ、「力になりましょう」と快諾してくれました。

紙数の関係で詳細は省略しますが、対馬さんの協力により、その後、事業が順調に進み、結果的には檀信徒皆様の賛同を得て四億三千万円の大事業を円成することができました。法城を築くため率先して物心両面に亘り協力してくれました対馬敏文さんにはこの場をお借りし衷心より深甚なる感謝を申し上げる次第であります。

法永寺史《その二十九》
~日本海中部地震について~

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成28年3月8日号掲載)

 法永寺全面新築計画を考える遠縁となったのは間違い無く日本海中部地震でした。

この地震は昭和五十八年五月二十六日正午に突然大地を揺るがしたのです。慌てて外に飛び出しました。本堂・二階建ての大広間そして庫裏が左右(南北)にグラグラと揺れていました。

私は一瞬「これはもうだめだ。潰れてしまう。」と思いました。両親の驚きと慌て様は筆舌し難いものでした。母は本堂に向かってお題目を唱えておりました。慌ててもどうしょうもないことで、もうなす術はないのです。ただ出来ることと言えばお題目を唱えることだけでした。

墓はバタバタと倒れ、山門はグラグラと揺れています。揺れ動いた時間はほんの数分だろうと思いますが、長い時間続いたように感じました。倒れた墓は十五基程でした。山門も簡易な古いものでしたので扉は外れ門柱の基礎部分も緩んでしまいました。本堂内は、幸いに人天蓋の落下は免れましたが、灯籠は台より落ち頭の部分は遠くに飛ばされていました。須弥壇上の仏像も倒れ欠落したものもありました。

幸いにも日蓮聖人の御木像は無傷でした。本堂左側の二階の大広間は悲惨なものでした。障子戸は、倒れたものも倒れないものも障子紙は全て破れておりました。欄間は落ち、床の間の棚も落ちていました。十枚程ある廊下のガラス戸の半数は二階から落下し壊れてしまいました。戸袋は辛うじて落下を免れましたが、必死にしがみついているような格好で危険な状態でした。

庫裏の二階、私の部屋は、書棚は全て倒れ、法衣タンスも、飾り棚も倒れ記念のガラス製品は粉々になり足の踏み場もないような状況でした。揺れは南北に強く揺れたようで、東西に面した食器棚は倒れず難を免れました。物は壊れましたが、寺族一同怪我をせずに済んだことは有難く神仏に感謝するところであります。

この地震は、報道によると十一時五十九分五十七秒に秋田県能代市西方沖八十キロメートル、深さ十四キロメートルで発生したマグネチュード七、七の逆断層型地震だということです。五所川原付近は震度五弱でした。

この地震で死亡したのは全国で一〇七名、そのうち津波による犠牲者は百名で、青森県の津波の犠牲者は十七名、その内九名が十三湊での犠牲者でした。十メートルを超える津波が押し寄せたということです。紙数の関係で続きは次号に譲ります。

法永寺史《その三十》
~日本海中部地震について ②

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成28年11月1日号掲載)

 前号で日本海中部地震が法永寺全面新築事業の遠縁となったことを述べました。すでに述べましたようにこの地震による被害は甚大でした。倒壊した墓石は墓主が各自で修復してくれましたので助かりました。有難く感謝申し上げるところであります。

墓石倒壊に加え、建物本体の歪みや内部の仏具等の破損、また日常生活用の器具家具等の破損も相当なものでした。庫裏の方の被害は寺族で考えなければなりませんが、本堂、大広間等については檀家全員で考えなければならないことであります。しかし、檀家でも大勢の方が被害に遭われておりますのでなかなか大掛かりな修理はできませんでした。

こういう状況でしたので、これ以降は、小さな修理を繰り返し騙し騙し建物を維持するということになっていく訳であります。 大地震の二日後、五月二十八日に身延山七面山参拝の団参に出発することになります。数ヶ月前にすでに案内し、参加者も決まり出発するばかりでしたので中止する訳にもいかず出発ということになりました。参加者は私と家内を含めて三十名でした。今改めて参加者の名簿を見てみますと逝去された方が十四名もおり、その方々のお顔や仕草が目に見えるようで懐かしい感じがいたします。

交通手段は法永寺から青森駅まではバスで、青森駅からは、二十一時十分発の寝台特急(ゆうづる6号)で上野駅へ、上野駅から身延へはバスで、身延山・七面山登詣、伊東の蓮慶寺、鎌倉の龍口寺、池上本門寺、柴又帝釈天等を参拝。帰途は、六月二日、上野駅二十一時四十分発の寝台特急(ゆうづる5号)で青森駅へ、そして青森駅からバスで法永寺へ。午前八時三十分帰着。おかげさまで、事故もなく五泊六日の団参を終えることができました。感謝、合掌。

総本山身延山では仏殿で六尺塔婆供養の特別回向をしていただきました。特別回向というのは、私たちのために特別に一座を設けていただき、法要をしていただくということです。その法要で、霊位回向はもちろんですが、日本海中部地震被災地の早期復興のご祈願もしていただきました。参加者は、お題目を唱えながら涙ぐんでおられました。被災地全体の復興はもちろんでありますが、私は法要中、法永寺の復興も併せて願っておりました。

話が後先になりましたが、檀信徒や師父の励ましもあり、昭和五十七年十一月一日に日蓮宗大荒行堂に入行、昭和五十八年二月十日に無事第再々行(壱百日修行を四回=通算四百日の修行)を成満、また入行中に法華経一部八巻二十八品を書写できたことは生涯の記念となりました。
満七十五歳になった私が今この歴史を書いているわけですが、日本海中部地震のあった昭和五十八年、師父は何歳だったのだろうかとふと気になり調べてみますと、六月二十二日で満七十歳、母は十月十八日で満六十四歳を迎えるという年齢でした。

法永寺史《その三十一》
〜法永寺の梵鐘について(1)〜

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成29年6月5日号掲載)

飛嶋恒巳様(平成二十八年六月逝去)が、平成二十七年お盆、お墓参りの折に、「法永寺の梵鐘を鋳造した時の記念の盃だと思いますが・・」と陶器製の盃を持ってきました。法永寺の梵鐘は、昭和初期の写真では見ることができますが、現物は残っておりません。梵鐘については以前から調べておかなければならないと思っていましたので、思いもかけない資料が天から降ってきたような地から湧いてきたようなそんな気がしました。

その盃は直径七センチの金色に縁取りされた白い磁器製で、内側上部に青空を背景にした白い桜の花が一輪描かれていて、文字は全て金色で、上部には右から「大正十年」、真ん中には縦に「梵鐘記念」、右側には「法永寺」、左側には「施主 敦勝商店」、下側には右から「仏壇商」と書かれています。最初から桐の箱に入っていたのかどうかは知りませんが、飛嶋様がもってきた盃は桐箱入りでした。非常に大切にされているような様子でしたので、文字を記録し、写真をとらせていただいてお返ししました。

昭和初期には梵鐘も鐘楼堂も確かにありました。写真に記録されておりますので間違いありません。ただ写真では梵鐘の銘文までは確認できませんので、銘文については今のところ不明です。

さて、盃に大正十年「梵鐘記念」と記されてありましたので、「梵鐘記念」とは梵鐘鋳造のことなのかどうかを知りたいと思い、大正十年の新聞を調べることにしました。月日は不明でしたが、もしも鋳造だとすると冬季ではないだろうということで、四月から十月までに絞って調べました。小さな寺の一行事ですから記事にはならないかもしれないという不安もありましたが、調べるだけ調べてみようということにしました。

弘前図書館でまず東奥日報を調べました。時間的なこともあり二日間大雑把に調べた訳ですが記事は見つかりませんでした。次の日もまた午前中に三月や十一月の新聞も調べましたがみつかりませんでした。もうダメかなと諦めかけていたとき、調査室の方(福井氏)に声をかけられ事情を話したところ調査に協力しましょうと励ましてくれました。

その二日後に「記事を見つけました」という電話をいただきました。東奥日報にはやはり記事はありませんでしたが、ローカルな「弘前新聞(大正十年八月六日号)」に記事があったということでした。そして翌日にその新聞のコピーを送って下さいました。公的な機関のプロフェッショナルにもこのような親切な人がいるということは想像もつかなかったことで大変うれしく感謝の念で一杯でした。

その記事は「五所川原法永寺 梵鐘撞始め」という見出しで僅か八行ぐらいの内容でした。しかし、そこには「馬場に於いて梵鐘改鋳」という重要なことが書かれておりました。

馬場とはどこか、改鋳とはどういうことか、次回にこの記事について詳しく述べたいと思います。また金属回収令等についても触れたいと思います。最後になりましたが、恒巳様の四十九日忌法要の折に奥様がこの盃を寄進して下さいました。この善業をここに記し、その厚志に深甚の感謝を申し上げたいと存じます。

法永寺史《その三十二》
〜法永寺の梵鐘について(2)〜

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成30年6月5日号掲載)

前回は、法永寺の梵鐘の改鋳について述べました。それは、弘前新聞の大正十年八月六日号の記事で判ったことでした。この改鋳された梵鐘は、一七四七年三月、法永寺第四世日盛代に、飛島五郎兵衛が一門先祖法界萬霊供養の為に寄進した梵鐘(五所川原町誌二〇三頁)であろうと推測されます。

その梵鐘の大きさは、高さ四尺三寸五分、直径が二尺二寸五分、厚さ二寸、目方百四貫八百目でやや小ぶりの梵鐘でした。治工は大阪の松井新三郎という人でした。五所川原町誌の口絵「隆光山法永寺」の写真の鐘楼堂に梵鐘が吊り下がっているのが確認できます。この写真は、定かではありませんが、五所川原町誌が発行された昭和十年頃に撮影した写真だろうと推定されています。ということはこの写真の梵鐘は、これが大正十年改鋳の梵鐘ということになります。

何故改鋳されたのでしょうか。私は、三十歳代頃から法永寺の歴史に興味を持ち、檀家や法永寺と縁のある古老に法永寺の歴史に関することを聞き、断片的ですがメモしておりました。そのメモはかなりあり、整理もせずに他の資料と共に乱雑にダンボールに詰め込んでおりました。前回、梵鐘について記すに当たり、梵鐘についてのメモを探しましたが見つからず、この度奇しくもそのメモを見つけることができました。それには「梵鐘に皹(ひび)が入り鳴らなかったので改鋳した」、「改鋳した場所は乾橋の南側の岩木川原」、「すごく熱かった」、「その場に立ち会った人たちは金の指輪や銀のカンザシ等を炉に投げ込んでいた」と記していました。メ

モの端に宮本さんと記していましたが、何故かこの宮本さんについての記憶がありません。前回、馬場で改鋳と記し、その馬場については何処か不明でしたが、このメモによって判明できました。また改鋳の理由も判明できました。子供の頃乾橋の南側の川岸には数頭の馬が繋がれていて、その馬を洗っているのを見かけたものでした。

またこの辺りの川岸には、砂上げの川舟が何舟も係留されていました。水泳ぎは、今のようなプールもなく岩木川しかありませんでしたから、毎日のように通う私たち子供等の遊び場として、その辺の状況をよく覚えております。

昭和十六年七月には、アメリカ等の日本資産凍結措置があり、アメリカ等との関係が危うくなり、九月には戦争準備を整えやがて開戦へと突入して行きます。この年の八月三十日に金属回収令が公布、同年九月一日に施行されました。この回収令によって法永寺の梵鐘も応召された訳ですが、応召された年月日は定かではありません。先ほどのメモには、十七年~十八年と記していました。

何にしましても、この梵鐘は昭和十七年か十八年には応召され残念ながら戦車の材料や鉄砲の弾になってしまった訳です。昭和二十一年十一月二十三日の五所川原大火により法永寺は全焼してしまいましたが、焼け跡からは梵鐘は発見されていません。応召されたのは確かでありまして、もし応召されていなかったとしたら、焼け跡から梵鐘が発見され、その焼け焦げた梵鐘が今に伝えられているはずであります。

法永寺史《その三十三》
〜法永寺等身大鬼子母神の作者〈仏師森英之進氏〉ついて

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成30年11月1日号掲載)

先ずは鬼子母神像造立の経緯について述べたいと思います。

都市計画(何時どういう状況で計画が始まったのか、その詳細について資料不足で今のところは正確なことは分かりません。後日機会があれば述べたいと思います。)で昭和三十二年に法永寺が寺町より末広町に移転すことになり、境内地北側にあった樹齢三百年以上と言われる銀杏の大木を伐採することになました。

三百年以上も法永寺と共に歩んできた樹ですから、末代まで法永寺の為に残したいということで、法永寺三十三世一道院日浄上人(小山田鳳隆・平成八年十一月七日遷化)が鬼子母神を制作することを発願し、その制作を森英之進仏師に依頼、なお、尊容は大本山法華経寺の祈祷本尊の鬼子母神とすることとして発注。昭和三十二年制作資金を勧募、昭和三十四年三月二十四日、開眼式(かいげんしき)厳修。尊像の底には、開眼年月日と開眼主の日浄上人名と花押、左側に森英之進大仏師と銘記されています。

平成九年、法永寺三十四世一乗院日珖(小山田顕裕)の発願による本堂・会館・庫裡・稲荷堂の全面新築が成り、鬼子母神の御厨子(おずし)を発注、本堂左側に安置、その中に鬼子母神を奉安しました。御厨子(おずし)内の大尊神の前には、大尊神の原型となった総髪(そうはつ)、合掌、立像、鬼形の小型の祈祷本尊鬼子母尊神を奉安しました。

さて、本題の仏師森英之進氏についてでありますが、森氏は明治五年(月日は不明)に弘前市に生まれ、十四才で神仏彫刻家奈良喜三郎の門に入り八年間修業。その後、前田常三郎に師事し研究を重ね抜群の才能を発揮しました。

明治三十四年に五所川原に移住。一般美術の彫刻にも精進し、昭和四年から連続国際美術展に入選しました。剣道四段で後進の指導にも熱心でした。五所川原立佞武多の製作にも携わったということですが、残念ながらそれを示す資料が見当りません。しかし立佞武多の立体像には彫刻家の関与を感じ取ることができるということです。例えば、直接制作に携わらないまでも、設計とか、現場指揮とかがあったかも知れません。

鬼子母神を制作した場所はどこかと五所川原市在住のお孫さんにお聞きしますと、恐らく市内布屋町の現東奥信用金庫の場所に住居が在ったので其処であろうということでした。同じ町内の森時計屋さんは仏師の弟さんだということです。

彫刻した鬼子母神を中心に左側には法永寺総代山谷満広氏、右側には仏師の弟保氏が写った記念写真があります。撮影年月日は不明ですが、昭和三十四年三月に開眼式を厳修していますから、恐らく昭和三十四年の一月か二月ではないかと思います。三十三世日浄上人は日蓮宗大荒行堂に昭和三十三年十一月に入行、五行を成満し、出行したのは昭和三十四年二月十日ですので、完成の知らせを受けて住職の代わりに総代が検分に行ったものと思います。

仏師は、昭和三十三年八月二十五日に逝去されておりますが、鬼子母神像完成後の逝去か、未完成の状況での逝去か不明です。もし未完成であったとすると、彫刻の心得のある保氏が最後の仕上げをしたかもしれません。

十数年前でありますが、仏壇仏具のお焚き上げを依頼されて偶然にもその中から森仏師作の日蓮聖人像(立像)を発見、その後作品として応接間の飾りケースに保管しておりましたが、平成三十年正月、感ずるところがあり、お厨子を調え、開山堂に奉安いたしました。お参りの際は祖師像に合掌お題目をお唱え下されば幸甚であります。

法永寺史《その三十四》
〜当山三十世唯常院日謙上人について〜

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成31年3月6日号掲載)

今回は、当山三十世唯常院日謙上人について述べたいと思います。

法永寺の全面新築が成った五年後頃(平成十五年頃)からだったと思いますが、境内墓地の南西隅にある古い墓石や記念碑等を気儘にポツポツと調べ始めました。

その時、表面に三十世唯常院日顕上人と刻字した小さな供養碑を発見しました。左側には、須藤観了四十四歳 明治二十五年旧六月八日亡と、裏面には、大正十三年旧六月八日三十三回忌 秋田県鹿角郡大湯赤川 成田顕光 建立、と刻字してありました。

早速当山の過去帳で調べましたところ、日顕上人について「明治二十五年四月二十日、秋田県毛馬村本光院より入山」とありました。過去帳には、姓名については記されておりませんでしたが、この石碑には須藤観了、四十四歳とありますのでこの通りであろうと思います。

また過去帳には、「明治二十五年六月八日四十四歳にして化」と記されていますが、これは石碑と一致しております。日謙上人の法永寺の住職歴は一ヶ月十八日に過ぎません。病気だったのでしょうか、それとも不慮の事故だったのでしょうか?記録がありませんので詳細不明です。

日謙上人は本光院より入山したことになっておりますので、詳しく知るために本光院を訪ねることにしました。現在の本光院の住所は、秋田県鹿角市十和田毛馬内字毛馬内五十一番地となっております。訪ねたのは平成十六年五月だったと思います。

住職は斉藤淳明上人でした。本光院の過去帳を拝見しますと、日謙上人は、本光院の二十一世で姓名は須郷観了となっています。法永寺の供養碑では、須藤観了となっていますので「郷」が正しいのか「藤」が正しいのか不明です。住職に聞いても判らないということでした。

供養主の成田謙光氏についてはご子孫にお会いすることができました。
成田謙光氏は昭和三十六年三月十九日、行年七十八歳で逝去。戒名は「積徳院法謙日光居士」という立派な戒名でした。

謙光氏の長男忠義氏は五十九歳で逝去(逝去年月不明)したということです。謙光氏には子供が八人あり、現在女性四人が健在ということです。忠義氏の住所は、鹿角市十和田大湯で、現在奥様ご家族様がお住まいになっております。

謙光氏と日謙上人との関係については住職に聞きましてもご子孫に聞きましても詳細不明です。故ご長男の嫁さん成田ミエさんの話によりますと、謙光氏は四歳から十六歳まで本光院に居住し坊さんになるための修行をしたが途中で止めて実家に帰り農業に携わったということです。

日謙上人と謙光氏の誕生年は、計算に間違いがなければそれぞれ嘉永二年(一八四九)、明治十七年(一八八四)となります。

従って、日謙上人が本光院から法永寺に入山する明治二十五年(一八九二)四月は、謙光氏が数え歳の九歳で、本光院を離れるまでは、本光院の日謙上人の許で修行をしていたということになります。さらに、十六歳ぐらいまで居たということですから、法永寺の供養碑は日謙上人へのご報恩のためだったことが判ります。因みに供養碑建立時の謙光氏の年齢は数え歳の四十一歳でした。

法永寺史《その三十五》
~法永寺史を記述していて、いろいろと思うこと~

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/令和1年8月3日号掲載)

法永寺歴代上人について今まで述べて参りましたが、何よりも大変なのは史料がないということです。当山にあるのは過去帳のみで、それも一人二、三行という簡単なものです。こういう状態ですから、三十世以前の歴代上人(三十世については、「法永寺史 その三十四」で述べました。)について詳しいことは不明ということになります。

三十二世(樋口鳳淳•慈妙院日侃上人・昭和二十四年三月遷化・世寿五十六歳)については、師父の義父ではありますが、諸事情により同居していなかったということもあり、私には肌に感ずるような記憶はありません。

また、師父の母(小山田トク・昭和九年逝去・四十八歳)については私の生まれる前に逝去しておりますので当然ながら分かりません。師父の母は婿取りで(夫は正次郎・性は吉田で京都出身・大正三年二月逝去・三十八歳)ただ、師父の祖母(小山田トヨ・母親の実母)は長生きし、昭和三十二年十二月に現在地の新築前の法永寺で、行年八十七歳で逝去しました。その時、私は中学三年生でしたからよく記憶にあります。私の曽祖母は、ものの出来る厳しい方で、母も苦労したと思いますが、私たち曽孫には優しい人でした。晩年には寝たきりになり、看病する母は大変であったろうと思います。

樋口鳳淳上人は、弘前市出身で、函館市実行寺の執事長だったということですが、実行寺の仲介で、師父の母と結婚し、昭和六年に法永寺に入山しました。もう少し調べたいのですが、今のところ詳細は分かりません。また、三十一世(妙心院日芳上人)についても詳細は分かりませんが、できる限り調べ、後日法永寺史で述べたいと思います。

ただの八十年か一〇〇年前のことで、手の届くところにある訳ですが、記録がないことには調べようがありません。記録の大切さが身に沁みて感じられます。ある郷土史家が言ったことですが歴史を書くには、「自分に一番近いところ、自分が記憶しているところ、親戚知人が記憶しているところから、書き始めた方が良い。」と。本筋から多少ずれることがあるかもしれませんが、それも私の記憶にあることを優先するということでご理解下さい。時々は余談に走りながら、また同じことを繰り返しながら、ゆっくりと記述して行きたいと思いますので、まるで痴呆にでもなったのかと疑われるかも知れませんがご海容下さいまして、今後ともよろしくご愛読お願い申し上げます。

法永寺史《その三十六》
〜三十一世妙心院日芳上人について〜

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/令和1年11月1日号掲載)

史料不足は否めませんが、日芳上人について精一杯纏めてみたいと思います。

当山の過去帳では、ごく簡単に「明治二十五年九月十八日感応寺より当寺へ入山、大正十四年旧十月七日入寂。宮本泰教」と記してあるのみです。

また、江利山義顕上人の纏めた「青森県日蓮宗寺院史」では、「上人は性を宮本、字を泰教と称し、文久元年正月八日弘前町宮本六右衛門の次男に生まれた。本行寺二十八世日凞の門に入り、明治二十五年九月十八日入山し、在職中に梵鐘を鋳造(*法永寺史三十一から三十二で述べました大正十年八月の梵鐘改鋳)し、開山堂(*開山上人以来歴代の上人を祀るお堂。現在の法永寺では大広間の二階が開山堂、及びお檀家さんの位牌堂となっております。)を建立して、紫金跡永聖跡に昇格した。大正十四年十一月二十二日遷化した。世寿六十八。」と記されています。

当山の過去帳に「感応寺より入山」とありますので、感応寺の寺歴を見てみますと、「二十八世妙心院日芳上人。満行院五世、法嶺院十七世、法永寺三十一世。」と記されています。

法嶺院の寺歴では、「大正三年入院し、同五年退院した。」と付記されています。日芳上人の師匠は、本行寺二十八世日凞上人ですが、青森県日蓮宗寺院史を見ますと、「明治八年四月十八日に本行寺に入山、四十年間在職し、大正三年九月二十二日退山、昭和二年十二月八日遷化した。世寿八十三。」と記されております。日芳上人の師匠でもある日凞上人は、宗門内外において活躍されたお方で、勝海舟とも親交があり、その御功績は大なるものでありますが、ここでは記述を省略させていただきます。

また、本行寺二十七世唯有院日住上人の説明の中に、「上人は、明治八年に退山し、晩年は法永寺日芳に給仕されて、明治三十年十二月二日遷化した。世寿九十二。」と記されております。

日芳上人が法永寺の住職を勤めながら日住上人に給仕したということは、本行寺を退山した後に法永寺に居住し、日芳上人の給仕を受けたのか?詳細は不明です。ただ、法永寺から本行寺に通って給仕するということは不可能だと思いますので、法永寺に居住して日芳上人の給仕を受けたと考える方が妥当じゃないかと思います。

その日住上人ですが、本行寺様の歴世概略を拝見しますと、「明治六年五月、庭前の池辺に黄龍現ず、六月当山に於いて雨乞祈祷感応ある。同十月西京本山本圀寺日禎貫頂教務奉命派出下向す。」とあります。当山三十一世の日芳上人と本行寺二十七世日住上人が弟子と師匠のような関係にあったということは興味深いことです。

さて、日芳上人ですが、当山に日芳上人の建立した石碑が二つあります。

一つは、明治四十二年六月二十四日に建立した清正公大神祇三百御遠忌の碑です。加藤清正は慶長十六年(一六一一年)八月二日没ですので、二年ほど前の三百遠忌奉行ということになります。

もう一つは、大正十一年四月二日に建立した開山隆光院日淳聖人歴代之諸上人の供養碑です。開山上人の右側に廿五世大雄院日宴上人、左側に卅一世妙心院日芳上人と刻字しています。何故開山上人の両脇に日宴上人と自分の日号を刻んだのか、その理由がよく判りません。石碑表面左下には、紫金跡開徳日芳と刻字しています。裏側中央には、開山宝永七年十月十九日、その右側に文久三年九月二日と刻字し、その左側には大正十一年四月二日、日芳建之と刻字しています。宝永七年は西暦一七一〇年で開山の年号でもないし意味がよく判りません。文久三年九月二日は日宴上人の命日なのかどうかこれもよく判りません。後日の研究課題としておきます。

なお紫金跡永聖跡について説明させていただきますと、これは、江戸時代に制度化された寺格制度の一つで、一代永聖跡と永代永聖跡の区別があります。恐らく日芳上人一代の紫金跡永聖跡であったろうと思います。永聖跡になりますと、一段格式の高い寺院となり、住職の僧階も上がり、法衣服に紫金欄を着用することができるようになります。これは、宗門のために大きな功績があったということで、住職並びにその寺院に与えられる名誉ある格式であります。以後これを機に法永寺も徐々に興隆して行くことになります。

法永寺史《その三十七》
〜師父(三十三世日淨上人)の誕生の地を訪ねて・・その一〜

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/令和2年6月5日号掲載)

師父、祖母、曽祖母については、法永寺史〈その三十五〉で簡単に触れましたが、調べているうちに師父の本籍地を訪ねて、その地に立ってみたいなと思うようになりました。

私の母「すゑ」は大正八年十月十八日、青森県中津軽郡新和村大字三和字川合十番地で父利吉、母さよの四女として出生しました。実家は大規模なりんご農家で、小中学生ごろまでは、母に連れられて何度も遊びに行ったことがあります。長男は利一郎で父母亡き後は戸主となりました。地元小学校の校長を務め、利一郎の長男も教員で、弘前高校の教諭を務めました。また母の弟も弘前高校の教諭を務めました。私は、弘前の叔父伯母の家から弘前高校に通学しました。実家親類との思い出はいろいろありますが、今回は省略させていただきます。

さて、函館の師父の実家(本籍地)についてでありますが、祖母トクが、師父と師父の姉を連れて、法永寺三十二世樋口鳳淳上人に嫁いできました。曽祖母トヨも共に五所川原に引越しして来ましたので、函館にはもう実家が無くなったということもあったかもしれませんが、子供の頃から成人するまで一度も函館の師父誕生に地には連れて行ってもらったことがありません。そういうこともあり、私自身健康で歩けるうちに、その本籍地を訪ね、この目で見、記録しておきたいと思った訳です。

さて、その本籍地ですが、戸籍簿を見ると、北海道函館市天神町十九番地で、父は小山田正治郎、母はトクで、師父は、大正二年六月二十二日、この地で、長男(四歳上の姉もあり)として出生しました。吉田正治郎は、本籍地は京都府京都市下京区室町通三条下烏帽子屋町五〇二番地で、同町二十九番地でガラス工場を経営する吉田又四郎、母「志よう」の次男として、明治十年十一月三十日出生。海員として函館市天神町一二七番地に住んでいました。

「トク」は、母「トヨ」の長女として、明治二十年十月二十四日出生、後に「トヨ」は娘「トク」を連れて函館市天神町十九番地の戸主小山田次郎に嫁ぎました。吉田正治郎は、縁があり、小山田次郎の養女「トク」の婿となり小山田と改姓しました。曽祖母トヨの話では、次郎は北海でのラッコ獲りを生業としていたということです。正治郎は海員でしたし、次郎はラッコ獲りでしたので、どこかに接点があったのだと思います。正治郎は、大正三年二月十四日航海中の海難事故で逝去、行年三十八歳でした。師父生後八ヶ月のことです。とにかく師父の本籍地天神町十九番地と正治郎の元の住所天神町一二七番地(祖父次郎の住所も一時的かどうか判りませんが婿養子婚姻届では戸主平民、海員、天神町一二七番地?となっております。)の現在の場所を探すことから始めることにしました。

まずは、函館市役所に行き、昔の町名番地は、現在の何処かを調べなければなりません。昔、祖母や母から聞いたことをメモしたものや戸籍資料を基に大雑把なレジメを作り、それをもって函館市役所へ行くことにしました。私と違った目線で物を見、また忘れ物を探すのも上手なので妻に同行してもらうことにしました。新幹線には何度も乗っているので、時間はかかりますが津軽海峡フェリーで行くことにしました。昔の連絡船の雑魚寝の部屋もありますが、ビューシートですと船の先頭のリクライニングシートを利用できますので、三時間四十分の航行でもそんなに退屈せずに済みます。

昨年六月初めに、資料作成等の準備が整ったので、調査のためフェリーで出発しました。フェリーを私は車なしの単なる乗船客として利用しています。昔の経験からいうと、フェリーボートの自動車の乗船口から、恐る恐る隅っこの方を誘導員の指示にしたがって乗船、細い急な階段を昇って休憩室まで行くのですが、最近のフェリーはボーディングブリッジを利用できるので便利になりました。フェリーは、時間はかかるが料金が安く快適というところがメリットでしょう。これからも、函館行きはこのフェリーを利用しょうかと思っています。

函館フェリーターミナルから函館駅まではタクシーで十五分ぐらいバスだと二十五分ぐらいです。市役所は駅から歩いて十分ぐらいのところですので、駅のロッカーに荷物を預かり、午後二時半ごろ市役所へ行きました。

函館市天神町は昭和四十年七月一日から弥生町という町名に変更されたそうですが、市役所では天神町十九番地は現在の何処になるのか、また天神町百二十七番地は現在の何処になるのかを親切に時間をかけて調べてくれました。

それによりますと天神町十九番地は、現在の弥生町十四番地二号に当たるということ、天神町一二七番地は、現在の弥生町十番地七号に当たるということです。さらに住宅地図でその場所を示してくれました。これにより地図上ではありますが、師父の本籍地が判明しました。親切に応対してくれた戸籍係の職員に感謝申し上げます。

後は現地へ行き実際の場所をこの足で踏むだけです。現地に行くのは明日にし、ゆっくり調査することにいたしました。本籍地のみならず師父の通学した学校や、在学中にアルバイトをした日魯漁業等についても調べてみたいと思いました。次回に弥生町の実地調査等々についてご報告いたします。

法永寺史《その三十八》
〜師父(三十三世日淨上人)の誕生の地を訪ねて・・その二〜

法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/令和2年8月3日号掲載)

 前回、調査のため函館へ出発したのは六月初めと記しましたが、本年(令和二年)即ちコロナウイルス感染拡大中の六月ではなく、昨年(令和元年)の六月ですので、説明不足をお詫びし付記させていただきます。
 六月十二日(水)午前九時頃、函館駅前の電停から函館ドック行きの市電に乗り、十五分ぐらいで終点のドック前に到着。潮の匂いと歴史と文化の香りのする古びた町でした。天神町は山手の方ですから、電停から直ぐの坂を上り、辺りを散策しながらゆっくりと歩いて行くことにしました。

坂には「魚見坂」という表示がありました。主な坂にはそれぞれ名前が付いていて地図上でざっと数えただけでも十四、五はあるようです。魚見坂の上り始めの所に「入舟児童公園」がありその一角に「新撰組最後の地」という記念碑がありました。これは、明治二年旧暦五月十五日に旧幕府軍が降伏した日、同じく新撰組もこの地で降伏したということを指すのだと思います。この坂をずうと上って行くと左角に廃校(小学校だと思います)があり、その廃校に沿って左側に進むと右側に大きなお寺が三ヶ寺あり、真ん中が日蓮宗実行寺でした。曽祖母はこの実行寺の世話人のような存在だったようです。

三番目の東本願寺系のお寺の前の坂(千歳坂)を下って行くと右側に「鯨族供養塔」があります。これは、昭和三十二年九月に遠洋捕鯨会社の捕鯨船船長の当時八十八歳の天野太輔が自分で捕獲した鯨の供養のために建立したものだそうです。その向側は西中学校で、少し下った所に十字路があり、その東西に伸びる道路の両脇が元の天神町、現在の弥生町ということです。その十字路から道路を東方に進んで行くと、また十字路(幸坂)があり、それを過ぎた右側に「天神町会館」(木造二階建て・外壁は緑色ペンキ)という建物がありました。町名が弥生町になりましたが昔の名前のまま残しているのでしょう。

そのまま右側を進んで行きますと、歩道に小さなテーブルを出し、茶飲み話をしている年配の男性三人がおりましたので声をかけてみました。その一人は町内会長でした。事情を話し、昔の天神町十九番地と一二七番地は、それぞれ弥生町の十四番地二号、弥生町十番地七号であることを話し、その場所は現在の何処であるか教えてもらうことにしました。親切に教えてくれまして、その場所は、市役所で教えてくれた場所と同じでした。天神町会館の中にも案内してくれました。町内会の名簿等の資料も調べてくれましたが、昭和四十年以前のものはありませんでした。

さて実際の場所ですが、師父の本籍地天神町十九番地は西中学校の北側、十字路から西側へ二軒目の家がそうでした。住居表示も弥生町十四番二号で間違いありませんでした。三軒目が空地で、四軒目は立派な土蔵で、売りに出されておりました。私の祖父(吉田正次郎・本籍は京都市・後に小山田トクの婿になる)の住所である天神町一二七番地は、西中学校の東側、十字路東南角の家がそうでした。クラシックカーを扱っている店のようでした。持ち主の住居は、北側角で、たまたま、見たこともないようなクラシックカーで帰ってきたところに遭遇しました。事情を話し、お店の番地を確認しましたが、弥生町十番七号にまちがいありませんでした。祖父と祖母の住居が大声を出せば聞こえるように近かったとは新発見でした。曽祖父次郎は北海のラッコ捕りが生業だということ、祖父の正次郎は船員だということですので海の縁があったのだろうと思います。

祖母が実行寺の世話人のようなことをして懇意にしていたということ、実行寺まで徒歩五分ぐらいの近さだということを知り、なるほどと納得しました。師父が函館日露漁業に勤務しながら、函館工業学校夜間部に通っていたということ、その学校の所在地や日露漁業会社の所在地等も調べたいのですが、今日はもう時間的にも遅く、フェリーでは帰りが遅くなってしまいますので、学校、会社の調査は後日に譲ることにして、新幹線で帰ることにしました。函館発十八時八分、新青森着は十九時四十四分でした。 (法永寺院首日珖・記)