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日蓮宗について 法永寺は日蓮宗の寺院です。

日蓮宗の基本情報

名称 宗教法人 日蓮宗
宗祖 日蓮聖人
開宗 建長5年4月28日 (西暦1253年・鎌倉時代)
本尊 久遠実成本師釈迦牟尼佛
題目 南無妙法蓮華経
祖山 総本山 身延山久遠寺
山梨県南巨摩郡身延町身延3567
経典 妙法蓮華経(法華経)
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宗旨の名称は

日蓮宗です。

日蓮宗を開かれた人は

日蓮聖人です。お名前がそのまま宗旨の名称になっています。

立教開宗された時期は

鎌倉時代の中期、建長5年(1253)4月28日です。清澄山(千葉県)の旭ケ森で、日蓮聖人は声高らかに「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えて、天地に立教開宗を宣言されました。

御本尊は

久遠実成の本師釈迦牟尼仏です。御本尊のみこころ、おさとりの世界を図にあらわしたのが「お曼荼羅」本尊です。

日蓮宗のよりどころは

お釈迦様がお説きになられた最高の教え「妙法蓮華経」です。法華経は、すべてのものが仏になることができる教えであり、お釈迦さまは、いつでも、どこでも、誰でもわけへだてなく仏にしようと働きかけている尊い仏さまです。

法華経が最高の教えである理由は

お釈迦様が解き明かされた、たくさんの教えの中で、法華経のみがお釈迦さまご自身の悟りの真実を説いた教えだからです。そして、お釈迦さまはもちろん、三世の諸仏も「妙法蓮華経」を説かんがために、世に出られたのだと明かされています。

尊い法華経とは

「妙法蓮華経」(鳩摩羅什訳)を略して「法華経」といいます。法華経は一部八巻二十八章から成り立っています。

その内容を要約しますと前十四章(迹門)には、お釈迦さまは永い年月の間、多くの人々を導くために方便の教えを説いてきたが、それは正覚(一仏乗)を得てもらいたいと念ずる故であり、この法華経を説くことによってそれは満足されたといい、すべての人々は、教えの前では平等であり、必ず仏になれる(二乗作仏)と説かれています。

後十四章(本門)には、覚者となられたお釈迦さまは、実は永遠の過去から永遠の未来に至る無始無終の仏(久遠実成)であることが明かされ、地から湧き出た久遠の昔からの弟子上行菩薩をはじめとする無数の菩薩に、仏の滅後、法華経を弘めるよう付嘱されたことが説かれています。

上行菩薩と日蓮聖人

上行菩薩は、末法といわれる濁った世に出て、お釈迦さまのご精神を体し、法華経を身をもって行じる菩薩です。ところで法華経には、末法にこの経を説き弘めようとすると必ず迫害に遇う、その迫害対して信念を曲げずに法華経を殉ずる覚悟でこれを布教しなければならない、と説かれています。

日蓮聖人は、法華経に予言された如くに、末法に入った鎌倉時代に生れ、法華経を弘めることにより命に及ぶほどの難に何度も遭いました。法華経に説かれた道を完全にお進みになられたことによって、日蓮聖人は上行菩薩としてのご自覚を深められたのです。

日蓮宗の信仰の基本は

日蓮聖人が命がけで弘められたお題目を朝夕に唱えることが、信仰の基本です。ご本尊に向かって一心に「南無妙法蓮華経」とお題目を高らかに唱えることによって、安らぎを得、又、平和の世界があらわれるのです。

お題目の功徳

法華経はお釈迦さまご一代の教えの中の肝心です。その法華経の題名「妙法蓮華経」はいわば仏の魂といえましょう。「妙法蓮華経」の五字の中に仏の功徳がすべて込められているのです。私たちはこの「妙法蓮華経」の光明に照らされて、生かされて成仏できるのです。

日蓮宗のお寺

日蓮宗のお寺は、総本山身延山久遠寺をはじめ、小湊誕生寺、池上本門寺など日本全国並びに世界各地にまで寺院があり、これらのお寺を拠点として、布教伝道がなされています。

信仰の中心は身延山(山梨県南巨摩郡身延町身延)です。宗門の運営は日蓮宗宗務院(東京都大田区池上)があり、ここでは全国日蓮宗寺院の本部として、日蓮宗の運営発展をはかっています。

法永寺の歴史 1645年創立の歴史のあるお寺です。

概 略

天保2年(1645)に創立され、開山は弘前本行寺8世隆光院日淳、開基檀越は岡孫右衛門である。奠師法縁。

創立時は、『法華堂』と称した。後に荒廃し、天和元年(1681)に、吉兵衛が再興し、『法華庵』と称した。

元禄2年(1689)に若狭小浜出身の岡孫右衛門が弘前本行寺に寺号を嘆願。本行寺8世日淳上人の尽力により寺号公称の認可を得、本行寺8世日淳上人の院号を山号とし、岡孫右衛門の法号を寺号とし、『隆光山 法永寺』と称した。

明和3年(1766)の明和津軽地震で本堂、庫裡が破壊されたが、同8年建立、さらに、昭和21年(1946)大火により再び消失、昭和32年都市計画により寺町から、現在の地に移転して新築された(33世日浄代)。

地震等により破損が進み、このため平成7年、全面新築に着手、平成9年秋完成、平成10年4月に落慶法要を奉行した(34世日珖代)。平成12年8月、新築事業の総纏め「立教開宗750年慶讃法永寺新築事業祈念誌」発刊。

本尊勧請様式は1塔両尊4士、祖像は天明2年(1782)の造立で払子、経巻を持つ腰掛像。ほかに等身大の鬼子母神像(33世日浄代)、宝暦3年(1753)勧請の妙持稲荷大明神がある。

「立教開宗750年慶讃法永寺新築事業記念誌(平成12年8月1日発行)」
第1章 法永寺の歴史について
第1節 法永寺の草創期について
草創期については、山号寺号が公に許される前の時期であり、確かな資料もなく年代を特定することは困難である。

① 「五所川原町誌(昭和10年9月原本発行)」には、明治5年寺院明細帳に、創立、天和元年辛酉(1681年)10月開山通心院日意宗祖日蓮上人幾世の法孫と申儀不肖、また「陸奥国津軽郡大邑誌」には、天和元年辛酉(1681年)10月3日、木村莧善左衛門二男吉兵衛という者、新宮道の傍に小庵を結ぶ之を開基の初祖とす、とあり。

② 当時の記録(記録者、及び記録年月日不明)には、正保2年乙酉(1645年)に柏原村新宮道に法華堂建立、草創者不明、後廃墟とあり。

③ 当山の過去帳には、寛文5年(1665年)9月11日、加ケ谷多左衛門(家の女性)逝去、法号は華生院妙顔日成信女で、法号から篤信者であることが判る。

以上のことから、寛文5年以前には既に法華堂又は小庵があったと思量できますが、草創期についてはもう少し時間をかけて研究する必要があります。

第2節 山号寺号の公称

① 当時の記録によると、本寺である弘前本行寺まで付け届けすることが不便なため、当時柏原村に居住していた若狭国(福井県)小浜の人岡孫右衛門が、本行寺に願い出て、元禄2年(1689年)、生国が同じである孫兵衛の抱地に間口5間の庵室を建立、法永庵と称し、本行寺に滞留中の若狭国出身の通心(通心院日意)を住職とした。同年、公儀へ寺号公称を願い出てこの免許を得た。寺号公称の願い出をしてくれた本行寺第8世隆光院日淳上人の隆光を頂き、隆光山とし、岡孫右衛門の法号順妙院法永日精の法永を採り法永寺と称した。よって開山を隆光院日淳上人、第2世を通心院日意大徳とした。

② 当時の記録によると、法永庵の建立は、元禄2年の9月13日となっている。しかし、寺号公称の免許月日は不明である。

※寺報「ぎんなん」にて昭和63年8月より連載しております現・法永寺院首日珖上人による「法永寺史」は以下にまとめて掲載しております。

法永寺の伽藍・施設

法永寺は、昭和32年の五所川原市都市計画により、寺町より現在の末広町に移転し新築(33世日浄代)されましたが、地震等により破損が進み、平成7年に全面新築に着手、平成9年秋に完成、平成10年4月に落慶法要を奉行(34世日珖代)しました。

等身大鬼子母尊神 毎月8・18・28、8のつく日は鬼子母尊神のご縁日です。

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鬼子母尊神について

『法華経』第26章「陀羅尼品」の中で、鬼子母神が十羅刹女と共に、「法華経を信仰する人を守護する事」を誓約しています。そのことから、日蓮聖人も鬼子母神を信仰され、大曼荼羅に勧請、さらには、鬼子母神と十羅刹女の関係を、母と子であるとの確信を次第に深められました。日蓮宗では、鬼子母神を法華経信者の守護神として勧請しています。

当山の等身大鬼子母尊神について

五所川原市の都市計画で昭和32年、法永寺は寺町より末広町に移転すことになり、寺町の境内地北側にあった樹齢300年以上と言われる銀杏の大木を伐採することになりました。

300年以上も法永寺と共に歩んできた樹ですから、末代まで法永寺の為に残したいということで、法永寺33世一道院日浄上人が鬼子母神を制作することを発願し、その制作を森英之進仏師に依頼、尊容は大本山法華経寺の祈祷本尊の鬼子母神とすることとして発注しました。昭和32年制作資金を勧募、昭和34年3月24日、開眼式(かいげんしき)厳修。尊像の底には、開眼年月日と開眼主の日浄上人名と花押、左側に森英之進大仏師と銘記されています。

さらに、平成9年、法永寺34世一乗院日珖上人の発願による本堂・会館・庫裡・稲荷堂の全面新築が成り、鬼子母神の御厨子(おずし)を発注、本堂左側に安置、その中に鬼子母神を奉安しました。御厨子(おずし)内の大尊神の前には、大尊神の原型となった総髪(そうはつ)、合掌、立像、鬼形の小型の祈祷本尊鬼子母尊神を奉安しています。

仏師森英之進について

仏師森英之進氏は、明治5年(月日は不明)に弘前市に生まれ、14才で神仏彫刻家奈良喜三郎の門に入り8年間修業。その後、前田常三郎に師事し研究を重ね抜群の才能を発揮しました。

明治34年に五所川原に移住。一般美術の彫刻にも精進し、昭和4年から連続国際美術展に入選しました。剣道4段で後進の指導にも熱心でした。五所川原立佞武多の製作にも携わったということですが、残念ながらそれを示す資料が見当りません。しかし、立佞武多の立体像には彫刻家の関与を感じ取ることができるということです。例えば、直接制作に携わらないまでも、設計とか、現場指揮などがあったかも知れません。

当山の鬼子母神を制作した場所はどこかと五所川原市在住のお孫さんにお聞きしますと、恐らく市内布屋町の現東奥信用金庫の場所に住居が在ったので其処であろうということでした。同じ町内の森時計屋さんは仏師の弟さんだということです。

彫刻した鬼子母神を中心に、左側には法永寺総代山谷満広氏、右側には仏師の弟保氏が写った記念写真があります。撮影年月日は不明ですが、昭和34年3月に開眼式を厳修していますから、恐らく昭和34年の1月か2月ではないかと思います。33世日浄上人は日蓮宗大荒行堂に昭和33年11月に入行、第五行を成満し、出行したのは昭和34年2月10日ですので、完成の知らせを受けて住職の代わりに総代が検分に行ったものと思います。

仏師は、昭和33年8月25日に逝去されておりますが、鬼子母神像完成後の逝去か、未完成の状況での逝去か不明です。もし未完成であったとすると、彫刻の心得のある保氏が最後の仕上げをしたかもしれません。

また、十数年前でありますが、仏壇仏具のお焚き上げを依頼されて偶然にもその中から森仏師作の日蓮聖人像(立像)を発見、平成30年正月、感ずるところがあり、お厨子を調え、開山堂に奉安しております。

取子祈願について

取子祈願(1年間)12,000円
病気や事故などに逢わないよう鬼子母尊神様の子供として自らをお預けしてご守護して頂く事を「取子」と言います。満1年間を通じて毎朝祈願致します。祈願者には名刺型の御守りをお渡し致します。

ご縁日

毎月8日、18日、28日、8のつく日は、鬼子母尊神様のご縁日です。この日だけご開帳しております。お気軽にお参りください。

鬼子母尊神大祭

【日にち】毎年6月18日
【時 間】大祭:10:30〜/法話
【祈願料】1,000円(1祈願)/特別祈願3,000円(1尺木札授与)
【祈願趣旨】家内安全・商売繁盛・社運隆昌・身体健全・病気平癒・試験合格・安産福子・交通安全・その他

昭和32年、法永寺が寺町から現在地に移転する際に、その境内地にあった樹齢300有余年の銀杏の大木を伐採することになり、その大木で作ったのが現在奉安しております等身大の鬼子母尊神(仏師・森英之進作)です。法華経を信仰する方、お題目を唱える方を護ります。

妙持稲荷大明神 毎月1日は妙持稲荷大明神のご縁日です。

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妙持稲荷大明神について

当山の妙持稲荷大明神は、宝暦3年(1753年)、京都の伏見稲荷大社「愛染寺(あいぜんじ)」より神璽(しんじ)を受け勧請した霊験顕著な稲荷です。法華経を信仰し、お題目を唱える人を守護して欲しいという願い、さらには法永寺の寺門繁栄を願って「妙持稲荷大明神」と名付け、当山に勧請されました。毎月1日をご縁日とし、8月1日に大祭を厳修して今に至ります。

愛染寺(あいぜんじ)の初代住持「天阿(てんあ)上人」は真言宗の神照寺(長浜市)で剃髪得度した方で、真言密教による稲荷の行法を大成した行者です。後に上人は、剃髪得度した神照寺の第11世住職となり、延宝2年(1674年)5月15日にこの神照寺において遷化しております。

法永寺が愛染寺から神璽を受けたのは、天阿上人が初代住持となってから120年も後のことですが、おそらくこの天阿上人の大成した仏教的稲荷を受けたものと思われます。ご神体として荼枳尼(ダキニ)像か、或いは、それを表したお札か、または、「稲荷社安鎮證書 本宮 愛染寺」と書かれた木札のようなものを受けたと思われます。しかし、当山の妙持稲荷大明神のご神体については今のところ不明です。

明治元年の神仏分離によって愛染寺は廃寺となり、これによって伏見稲荷大社は、仏教的稲荷と縁を切り、完全に神道的稲荷社となりました。したがって、現在の伏見稲荷大社の神道的稲荷のご神体と当山の妙持稲荷大明神のご神体は異なることになります。

妙持稲荷大明神大祭

【日にち】毎年8月1日
【時 間】大祭:11:00〜/法話
【祈願料】1,000円(1祈願)
【祈願趣旨】家内安全・商売繁盛・社運隆昌・身体健全・病気平癒・試験合格・安産福子・交通安全・その他

※抹茶の振舞い(お菓子付き・無料)や山野草の展示があります。

当山の稲荷大明神は、宝暦3年(1753年)勧請の由緒ある霊験顕著な稲荷です。法華経を信仰する方、お題目を唱える方を護ります。ご参詣されご縁を結んでいただければ幸いです。祈願申込者には「妙持稲荷大明神守護札」、お灯明ご志納入者には省エネ「朝顔柄うちわ」を差し上げます。

住職・院首について

第35世 法永寺住職
小山田 和正(おやまだ わしょう)(日号:日楓)

法永寺住職
社会福祉法人立正福祉会 家庭児童相談室相談員
臨床宗教師(日本臨床宗教師会認定・東北臨床宗教師会副会長)
スピリチュアルケア師(一般社団法人日本スピリチュアルケア学会認定)
伴走型支援士(一般社団法人日本伴走型支援協会認定)

昭和45年(1970年)生。立正大学大学院(文学研究科/仏教学専攻)修士課程卒業。卒業後、日蓮宗海外布教開教師として米国オレゴン州ポートランド日蓮仏教会助員就任。以降、カリフォルニア州サクラメント仏教会助員、カリフォルニア州サンノゼ海外布教センター職員、イリノイ州シカゴ日蓮仏教会主任、マサチューセッツ州ボストン日蓮仏教会主任を経て、平成15年3月、米国赴任任期終了に伴い帰国。平成13年、日蓮宗大荒行堂初行入行。平成16年、日蓮宗大荒行堂第再入行。平成30年3月より法永寺住職。




法永寺院首(第34世 法永寺住職)
小山田 顕裕(おやまだ けんゆう)(日号:日珖)

昭和16年(1941年)6月生(寺町の旧法永寺にて)。昭和41年3月立正大学仏教学部仏教学科卒業。同年4月金倉圓照先生、塚本啓祥先生の推薦により東北大学大学院文学研究科印度哲学専攻の研究生となる。(律蔵安居犍度の研究)。昭和43年2月日蓮宗大荒行初行成満。同年3月法永寺副住職となる。昭和58年2月日蓮宗大荒行再々行成満。平成4年7月法永寺34世住職就任。平成9年12月法永寺全面新築事業円成(工事期間3カ年、総事業費4億3千万円)。平成23年11月藍綬褒章受章(更生保護功労)。平成24年7月青森市鶴ヶ坂に布教所「深敬庵」を開設。平成30年3月法永寺住職退任。平成30年5月法永寺院首となる(宗務総長承認)。現在、法永寺と深敬庵を往復し、原始仏典の研究と布教活動に専念。

メディア掲載

2020年

2020年4月22日
本日、東奥日報朝刊に住職の活動が掲載されております。


2020年4月〜9月
2020年4月より陸奥新報に住職のエッセイが掲載されます。


2020年5月20日
テンプルモーニングラジオ「今日のお経」コーナーにて住職のお経が配信中です。


2020年7月15日
本日、河北新報に住職の活動が掲載されております。


2020年7月18日
本日、陸奥新報に住職の活動が掲載されております。


2020年7月31日
本日、東奥日報夕刊に住職の活動が掲載されております。


2020年8月20日
音がつなぐ、あたらしい巡礼の旅路「音の巡礼」


2020年8月22日
オンライン「お寺のソーシャルデザイン #1」にて住職がお話させて頂きます。


2020年8月24日
本日、読売新聞(青森)に住職の活動が掲載されております。


2020年9月29日
大仏造立プロジェクト勧進法要イベント(東奥日報・陸奥新報・河北新報)


2020年9月30日
RAB青森放送「サカイやさかい!」に、住職が出演します。


2020年11月11日
大正大学出版会発行「地域寺院(54号)」に住職のインタビュー記事掲載頂いております。

2021年

2021年1月4日
「朝日新聞(青森版)」に住職の記事掲載頂いております。


2021年2月1日
「月刊住職(2021.2月号)」に松本紹圭さんと住職の対論記事を掲載頂いております。


2021年2月11日
学生団体LINDEAL主催『あおもり×○○~青森の魅力、気づいていますか~』でお話させて頂きます。


2021年3月8日
「東奥日報」に住職の記事掲載頂いております。


2021年3月20日
「陸奥新報」に住職の記事掲載頂いております。


2021年7月18日
「陸奥新報」に住職の記事掲載頂いております。


2021年7月20日
FM APPLE WAVE「津軽いじん館」出演


2021年10月11日
2021年10月11日(月)より、当山住職がFMごしょがわら「心を調える」のコーナーにレギュラー出演致します。


2021年11月12日
「通いの場&認知症セミナー IN 南部町」にてお話させて頂きます。


2021年12月7日
松本紹圭・遠藤卓也著『みんなに喜ばれるお寺33実践集: これからの寺院コンセプト』

2022年

2022年1月〜6月
河北新報「座標」に、当山住職の連載(2022年1月〜6月)はじまります。


2022年6月11日
仏教を楽しむ情報誌 フリーマガジン「わげんせ」最新号(Vol.21)届いております(当山住職「法話」掲載誌)