黒い革靴を履く(陸奥新報リレーエッセイ「日々想」7月掲載分)

【サイの歩きかた】 当山住職のノートです。月1回程度、更新します。今回は、陸奥新報リレーエッセイ「日々想」7月5日掲載分のエッセイです。

たとえば、「お通夜の下足棚は世界である」と設定すると、僕にはこんな話がある。

初めて礼服を着たのは数十年前。大学の卒業祝いに、勤めていたお寺の御前様から頂いたオーダーメイド品で、内ポケットには僕の名前が刺繍されている。シャツもネクタイもその時に一緒に買ってもらった。その一張羅に初めて袖を通す日、僕はそれに合わせる黒い革靴を持っていないことに気がついた。

今まで黒い革靴とは無縁の人生を送ってきたわけだし、これからもそんな機会は稀だろうと近くで安く適当なものを買った。それは永遠に愛着や思い入れが湧いてこないタイプの黒い革靴で、その証拠に、今ではどんなものだったのかも全く思い出せない。とにかく、僕はその慣れない黒い革靴で会場に向かった。

さて、お通夜が終わり、下足棚の前に立つと、どうやらそこに僕の靴がないことに気がついた。きっと置いた場所を勘違いしたんだろう。ここで少し待って、弔問客が次々に帰るのを見送れば、球数はどんどん少なくなるし、探す手間も省ける。出張帰りに車を停めた場所を忘れ、果てしなく広い青森空港の駐車場を右往左往するよりはマシだ。

僕は待った。待ち続けた。だんだん球数は少なくなった。でも、僕の靴は見当たらない。「どうしました?」ついに受付の人が僕に声をかけてきた。僕は「靴が…」と答えると、すぐに「誰かが間違って履いていってしまったのかもしれませんね」と、すぐに残っている人に声がけして、そこに居る誰のものでもない一足を探し出した。

結局、僕はそこに居る誰のものでもない黒い革靴を履いて帰ることになった。シンデレラが落としたガラスの靴みたいにピタッとフィットしてくれたら運命の出会いを感じたかもしれないが、家に着く頃にはしっかり靴擦れで小指が痛んだし、何よりもその靴は僕が選んだものではなく、押し付けられた残りものに他ならなかった。なんだかモヤモヤした気持ちだけが残った。

ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、英国の様々な人種や層の子供たちが集う元底辺中学校に通う息子さんの日々を記したエッセイだ。中で、「エンパシー(共感)とは何か?」という試験問題の話題が出てくる。この試験問題について、父親が息子に答えを何と書いたかと問う。彼は、「(エンパシーとは)自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」と答える。

お通夜の下足棚の世界で「黒い革靴」という言葉は、ひと思いに全ての黒い革靴を飲み込んで溶かしてしまう怪獣だ。その怪獣をなんとか抑え込み、下足棚に並ぶ一足一足をよく見ていくと、実に多彩で多様性に富んでいることに気がつく。今、僕は、誰かの靴を履いてみることを想像する。その努力を続ける。靴のどの場所が痛むかは、履いている者しかわからない。
彼や彼女が履いている黒い革靴は、もしかしたら、選択肢を与えられずに押し付けられた、たった一足の残りものなのかもしれない。(終)

(陸奥新報リレーエッセイ「日々想」7月5日掲載)
※2020年4月〜9月まで、第1日曜日発行の陸奥新報朝刊に住職のエッセイが掲載されます。