胡瓜の荒馬で帰る(陸奥新報リレーエッセイ「日々想」8月掲載分)

【サイの歩きかた】 当山住職のノートです。月1回程度、更新します。今回は、陸奥新報リレーエッセイ「日々想」8月2日掲載分のエッセイです。

ある日、孫娘と歩いていた老婆が突然脱皮をしたくなった。そこで孫娘に待っているように言い、近くの岩陰で脱皮をした。脱皮をして若返った老婆が孫娘の前に戻ってくると、孫娘はその女性が老婆であるとは気がつかず、知らない人だと言って冷たくあしらった。その孫娘の態度に怒った老婆は、もう一度岩陰に戻り、脱いだばかりの皮をもう一度身につけ、もう「これからは脱皮しない」と誓った。この時から人間は死を受容することになった。

英国の人類学者ジェームズ・フレイザー著『不死信仰と死者崇拝』で取り上げられているニューギニア島の神話である。この神話は、昔、人間は脱皮することで若返り、死ぬことはなかったが、この老婆の一件があって以降、人間は死ぬことになったと伝えている。僕たちの死の起源の話は置いておくとして、この話から僕たちが考えるべきは、あの世から帰ってくる時は、いつの、どの姿で帰ってくるか、更に、それは誰が決めるのかが結構重要だという点である。

たとえば、僕が死んだら、八月のお盆に帰ってくる。久しぶりに愛する家族に会うわけだし、かっこいい姿を見せたい。小太りで禿げ上がっているよりは、できれば十代、きめ細かな肌、髪も若々しく、スラっとした姿で、胡瓜の荒馬にまたがり『荒野の七人』のスティーヴ・マックィーンばりにさっそうと帰ってきたいと思う。しかし、意気揚々と帰ってくる僕に対して、家族の反応は冷たい。孫娘には知らない人が仏間にいると大声で叫ばれたあげく、塩対応ならぬ、塩をまかれて追い払われてしまうかもしれない。

今冬、3本の主演映画を残し1955年に交通事故で亡くなった伝説の俳優ジェームズ・ディーンの新作映画が公開される。AIとCGを駆使し、姿形はもちろん、声もそのままのスターが銀幕に帰ってくる。昨年末の紅白歌合戦では、1989年に52歳の若さで亡くなった美空ひばりが、AIと3Dホログラム映像を駆使し、AI美空ひばりとして僕たちの前で新曲を披露した。どちらも大きな議論を巻き起こしたが、この流れは止まらないし、きっと、近い将来、お盆にはAIとCGによって帰ってきた故人と過ごすなんてことも難しいことではなくなる。

ここでも、いつの、どの姿で、それは誰が決めるのかが重要になってくる。ジェームズ・ディーンも美空ひばりもエンターテイメントであると考えると、一番人気のある頃の姿をして帰ってきたはずだ。つまり、幼少期から晩年まで様々なことを経験し変化してきた人生の中で、生きている人が、一番元の取れそうな姿が「点」で選択される。では、僕の場合はどうだろう。僕は十代の若々しい「点」を選択して欲しい意志がある。しかし、僕の家族や友人は、その「点」を選択するだろうか。生きていても、死んでいても、僕はどこまでも僕の考える僕ではなく、誰かが想う僕らしさ、それが僕自身だろうし、お盆に帰ってくるのは、きっと誰かの心に残る僕らしさだろう。(終)

(陸奥新報リレーエッセイ「日々想」8月2日掲載)
※2020年4月〜9月まで、第1日曜日発行の陸奥新報朝刊に住職のエッセイが掲載されます。