未来への可能性つなぐ〜開かれた〇〇(河北新報「座標」2022年2月掲載)

【サイの歩きかた】 当山住職のノートです。今回は、河北新報「座標(2022年2月掲載)」に掲載されたものです。※河北新報さんに許可を頂いて掲載しております。・タイトルは河北新報さんに付けて頂いております。・新聞掲載に際し、細かな箇所が新聞用語に修正されています。

未来への可能性つなぐ〜開かれた〇〇(河北新報「座標」2022年2月掲載)

昨秋から僕は法人を立ち上げようと、仲間とたびたび集まって対話を続けていた。ネットで法人設立の手順を検索していた際には難しく感じなかったし、素人ではあるが、設立まで自分たちの手でやってみようと意気込んでいた。

しかし、法人設立の準備を進めていくとき、ネットの情報は曖昧で正確さに欠け、進もうとする足がいちいちもつれた。何が分からないのか? を知ることができたのは進歩だったが、さて、その分からないことを、一体誰に尋ねたらよいのか分からずに行き詰まってしまった。

しかし、ゴールは明快だ。法人の設立だ。鍵を握るのは、その過程を知る人だと考えた。僕は分からない事のリストを片手に、法人設立に詳しいと思われる人たちに尋ねることにした。ところが、挫折感を味わうことになった。

何人かに尋ねたが「うちでは分からない」。「では、誰に聞いたら分かるのか?」と尋ねても「知らない」の言葉が返ってきた。次第に法人設立への道が狭く、光は小さくなり、孤立感だけが募った。なんだか未来が閉じられていく感じだった。

僕は無自覚にお寺でも同じことをしているのではないか、と考えるようになった。たとえば、昼すぎに電話が鳴る。「そちらで座禅会はありますか?」と男性の声。座禅なら禅宗系のお寺であろう。日蓮宗寺院に座禅のことを尋ねるのは甚だ見当違いだ。彼の勉強不足を思いながら「うちではやってないし、分からない」と答えるのが手っ取り早くなる。

しかし、座禅会に参加することが、彼の目的なのだろうか? と想像してみた。なぜ、彼は座禅会に参加したいと考え、寺院を検索し、携帯電話を手にしたのだろうか。仕事や家庭でうまくいかず、思い詰めた末に仏教に将来を託したかったのかもしれない。座禅会に可能性を感じたのかもしれない。誰もがそれぞれかけがえのない物語を持っているのだ。

フレデリック・ワイズマン監督の新作映画「ボストン市庁舎」を鑑賞した。米国ボストン市役所の舞台裏を追ったドキュメンタリー映画である。さまざまな市民から持ち込まれる、容易には解決できそうにないが、おのおのにとっては一大事に対し、市長はじめ職員が市民と対話を重ねていく。4時間34分の長尺で全編ほぼ対話である。

駐車違反で切符を切られた若い男性とのやりとりが心に残った。彼にとっては初めての妻の出産で、しかも深夜だった。「喜びと焦りで気持ちが動転し、消火栓の前に車を止めてしまった」と職員に申し訳なさそうに訴える。職員は彼の話を聞き、受け入れ、今度は気を付けてと、その違反は許される。

開かれた行政、開かれた市役所、開かれた町、開かれたお寺…。よく目にする「開かれた」とは、一体何を指すのだろうか。ここ数カ月考えていた。きっと開かれたとは、自らが開くことではなく、あなたの物語や可能性が受け入れられることによって、ゆくりなく開かれることを指すのかもしれない。(終)