終末期の事前指示〜いのち一人の力及ばず(河北新報「座標」2022年1月掲載)

【サイの歩きかた】 当山住職のノートです。今回は、河北新報「座標(2022年1月掲載)」に掲載されたものです。※河北新報さんに許可を頂いて掲載しております。・タイトルは河北新報さんに付けて頂いております。・新聞掲載に際し、細かな箇所が新聞用語に修正されています。

終末期の事前指示〜いのち一人の力及ばず(河北新報「座標」2022年1月掲載)

「終末期になった時、延命のための人工呼吸器を希望しますか?」「胃ろうによる栄養補給を希望しますか?」等、きっと普段は妻からさえ問われることのない質問が並ぶ「終末期医療に関する事前指示書」を前に、僕の心は完全に弾力を失っている。誰でもわかる問いに対し「希望する・希望しない・その他」から答えを選び、チェックしていくだけのことだが進まない。

被災地や地域、医療福祉施設などの公共空間で、心のケアを提供する宗教者「臨床宗教師」になることを希望し、東北大学で学んでいた際、何度かリビング・ウィル、事前指示書、エンディングノート等、つまり、突然の病気などで意思を伝えることができなくなってしまう場合に備え、事前に希望するケアを書き記しておくこと、の大切さを学び、自らもそれに向かい合う時間が何度かあった。

事前指示書と向かい合う時、僕は何を問われているのだろう?共通テストで世界史が問うのは他人の人生だが、今、問われているのは僕の人生だ。生まれてから四六時中一緒に居る僕自身について考えることが難しいはずはない。今の気持ちをそのまま答えたら良い。正解も不正解もない。気持ちが変わったらあとから書き直すこともできる。

でも、僕は苦しい。ずっとそんなことを考えてきて、気づいたことがある。つまり、僕が「僕の事前指示書」と向かい合う時、立ち現れるのは『君のいのちは誰のもの?』という答えのない問いと、『君のいのちは、君のものだよね?』という付加疑問文だ。その二つのはざまで揺れ、悩み、考える。各項目にチェックする度に「君の決定は、君の責任ですよね!」と強く念押しされていく。

國分功一郎著「中動態の世界〜意志と責任の考古学」に感銘を受けた。現在の言語は「する」という能動体と「される」という受動態に分けられるが、かつては、中動態と呼ばれるそれに入りきらないものを認める文法が存在したとし、その歴史を紐解いていく。興味深いのは、かつて存在した中動態が失われ、現在の言語が能動か受動かの二択になったのは、責任の観念の発達にあるとされている点。君がやったのか?やらされたのか?二択の世界で僕たちは生きている。

実は、僕の母国語とも言える津軽弁を含む、北海道、北東北には中動態に似た態が残っている。「する」でも「される」でもなく、『○○ささる』という表現がそれに当たる。意図せず環境によってそうなってしまう、そんな意味になるだろうか。僕も普段から使うし、言葉が残っているということは、僕にも中動態的思考が残っているということだろう。「書かさった」り、「延命ささった」り、きっと僕一人でどうにかできるものなんて一つもない。今の僕には、このある種の無責任さが心地よく響く。(終)