命のつながりに気付く(河北新報「座標」2022年4月掲載)

【サイの歩きかた】 当山住職のノートです。今回は、河北新報「座標(2022年4月掲載)」に掲載されたものです。※河北新報さんに許可を頂いて掲載しております。・タイトルは河北新報さんに付けて頂いております。・新聞掲載に際し、細かな箇所が新聞用語に修正されています。

命のつながりに気付く(河北新報「座標」2022年4月掲載)

『歩く者は歩かない』などと面食らうようなことを論理的に説明し納得させてしまう、そんな仏教をカッコいいと思っていた。大学の仏教の授業でもアカデミックな文脈を好んだ。青臭い厨二病的困難を大逆転させてしまうダイナミックさに何度も助けられてきたし、これこそが本来の仏教であると信じた。いつしか、僕は剣から身を守る鎧のように「僕の正しい仏教」で身を固めていった。

心のケアの現場に立つ時、自身の思考の癖をよく知っていることが不可欠であることを学んだ。誰もが個々の人生の経験や体験の積み重ねの中で、その人独自の偏りが生まれてくる。その偏りを、その人の持つ「独自の正しさ」と言い換えても良いかもしれない。

それを独りで発見することは難しく、スーパーバイザーなど他者との対話の中で気づかされていく。どんな場面でその怒りが湧いてくるのか?その怒りはどんな種類のものか?その怒りは何処からやってくるのか?どうして?どうして?と深掘りされる反復。僕は硬く握りしめた「独自の正しさ」の存在に気付いていく。いや、認めていくと言った方が良いかもしれない。それはきっと僕がその存在を知りながら、無いものとして心の奥に閉まってきたものだ。

津軽地方には、今もカミサマ、イタコ、オガミヤなどの民間信仰が残っている。それらは、地域の仏教寺院とも深く交わいながら育まれてきた。当然、津軽のお寺に生まれた僕も幼少よりそれらに触れる機会が多くあったが、若い僕には、それは論理的ではない怪しいもの、触れてはいけないもの、仏教に含めてはいけないもののように感じていた。しかし、お寺という場に居る限り、逃げても逃げても、それは追いかけてきた。

どうやら、僕の偏りはこのあたりに起因しているようだった。きっと、そこから逃げるために「正しい仏教」で身を固め、海外寺院への赴任を希望した。この偏りは、思う以上に僕の生に深く広く影響を与えているようだった。

ここ数年、僕は地元に残る民間信仰に興味を持ち、たまに近所のお寺にお邪魔している。あるご住職が見せてくれた賞状ほどのサイズの木板には、それぞれに木々、馬、インコ、魚、バッタ、カブトムシなどが描かれている。困難を抱えた方がオガミヤに相談に行く。オガミヤは彼の話しを聞き、今の困難はあなたが知らずに諌めたカブトムシの因縁であろうと、木板にカブトムシの絵を描き、これを持ってお寺で供養をしなさいと進言する。そのようにしてお寺に持ち込まれる木板である。

この話しを聞く今、僕の気持ちは以前とは少し違う。人間中心になり過ぎた世界で見過ごしがちないのちへの眼差しと、いのちの声を感じる。僕たちは、木、花、動物、魚、虫、多くのいのちに囲まれて、繋がり重なり合って生きている。そりゃ因縁だってあるだろう。僕の「正しさ」の鎧が剥がれ落ちていく時、全てのいきもののいのちと祈りが見えてきた。

ウクライナの全てのいのちに安穏な時が訪れますように。(終)