【今月の(仏教)書】なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか〜仏教と植物の切っても切れない66の関係[著]稲垣栄洋

【今月の(仏教)書】住職が月1回、棚からひとつかみ、比較的読みやすく、比較的安価で、地方の本屋でも手に入りやすいような「(仏教?)書」を紹介します。住職読了後は、「ぎんなん文庫」へ寄贈しておりますので、どうぞご利用ください。

なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか〜仏教と植物の切っても切れない66の関係

(2015年3月20日 第1刷発行/発行所:株式会社幻冬舎/定価800円+税)

[著]稲垣栄洋(いながき ひでひろ)
1968年静岡県生まれ。静岡大学大学院農学研究科教授。農学博士、植物学者。農林水産省、静岡県農林技術研究所等を経て、現職。主な著書に「身近な雑草の愉快な生きかた」、「植物の不思議な生き方」、「キャベツにだって花が咲く」、「雑草は踏まれてもあきらめない」、「散歩が楽しくなる雑草手帳」、「弱者の戦略」などがある。

やっと青森でも5月中旬くらいから暖かくなり、それを待っていた境内の植物も次々と花を咲かせている。(その様子は当山のインスタグラムで日々更新しておりますが、お近くお越しの際はお気軽にお立ち寄りください。)

花、植物と仏教は切っても切れない関係だ。当山の本堂の正面にも金色の木彫の常花が供えられ、天井には花が降り注ぐ場面を模した天蓋(てんがい)や、花の模様が描かれた灯籠が吊るされ、本堂の天井自体にも升目ごとにたくさんの花が描かれている。法要の際にも私たちは散華と呼ばれる花を降らせるし、そもそも、私たちがいつも読む「妙法蓮華経」も花の名前である。お釈迦さまの誕生日を花まつりと呼ぶし、ご入滅の際には四枯四栄と言って、8本あった沙羅双樹のうち4本は瞬く間に枯れ、残る4本は栄えるように咲いた言われている。我が日蓮聖人が生まれた日には浜辺に青蓮華が咲き乱れたし、ご入滅の際には桜の花が満開になったと言われている。挙げていくと際限がないが、とにかく植物と仏教は縁が深い。

理由はハッキリしていて、仏教の発祥地であるインドの人々にとって花はとても身近な存在であり、そのため、仏教では教えを彼らの身近な存在である植物や花に喩えることが多かったからである。私たち日蓮宗の檀信徒にとって普段より慣れ親しむ「妙法蓮華経」というお経のタイトルも蓮の華である。「蓮は泥より出でて、泥に染まらず」といわれるように、不浄から茎を伸ばし、美しい花を咲かせる蓮の華のような教えであるという意味になる。その法華経の中にも、様々な花が登場し、教えに華やかな彩りを添えている。しかし、日本に住む私たちにとって残念なことは、登場する華のほとんどがインドの植物であるという点である。つまり、なかなか馴染みのない華である為に、その教えを理解するにはちょっとだけ知識が必要になってくる。その部分を詳細に教えてくれるのが本書である。

読み進めていくにつれ、なぜ仏教では教えを植物に喩えることが多かったのかが、植物の生き方を通して考察されていく。私たち人間と植物は姿形は大きく違う。植物は自由に動くこともできないし、まして、ものを言うこともできない。しかし、生きることにおいては、人間も植物も変わらない。「生命を持っている」ということにおいて、全く同一である。全く同一とした時、私たち人間が考える「私」とは一体何を指すのだろうか。どこからどこまでが「私」なのだろうか。植物の生命を考えるとき、その境界線はだんだん滑らかに曖昧になり、ただどこまでも広がる「生きるエネルギー」だけが続いていく感覚を覚える。きっとその感覚こそが仏教の一番伝えたいことなのかもしれない。

妙法蓮華経と申すは蓮に譬へられて候
天上には摩訶曼陀羅華
人間には桜の花
此等はめでたき花なれども
此等の花をば法華経の譬へには仏取り給ふ事なし
一切の花の中に取り分けて此の花を法華経に譬へさせ給ふ事は其の故候なり

日蓮聖人御遺文「上野尼御前御返事」弘安四年(1281年 聖寿60歳)