法永寺史《その二十一》〜天明飢饉供養碑について 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成25年3月8日号掲載)
当寺山門右側に「南無妙法蓮華経」と謹刻した大きなお題目の石碑があります。門前の目に触れやすい場所にありますので、檀信徒の皆様には既にお気付きのことと存じます。
この石碑が建立されたのは当山十五世(日侃上人)の代で、建立主は曾て当山十二世を勤めた日宣上人でした。石碑建立時の文化二(一八〇五)年は天明三(一七八三)年大飢饉のちょうど二十三回忌に当たり その供養のために建立したもので郷土史の貴重な研究資料となっております。
日宣上人は宝暦八(一七五六)年に五所川原で生まれ(誕生月日や地番、姓名については、今のところ不明です。特に「姓」は歴史的に重要ですので調べてみる必要があると思っております。)、弘前本行寺十三世日幸の門に入り、縁あって法永寺に入山、その後寛政六(一七九四)年に妙経寺に入山、文化十四(一八一七)年に黒石法嶺院に入院、法嶺院の再興に尽力し、中興開山となっております。誠に残念無念なことでありますが、文政九(一八二六)年十月十八日、参籠者に殺められ不慮の最後を遂げました。世寿七十一歳でした。
天明の飢饉は、天明二(一七八二)年から天明四(一七八四)年まで続き、被害の大きかったのは天明三年の飢饉でした。天明三年の大飢饉は、上人二十七歳の時ですから、悲惨極まりない地獄のような惨状を目の当たりにし、あるいは又餓死病死者の中に親類縁者知人等がいたかも知れません。このような由縁で石碑建立当時は法嶺院の住職ではありましたが、法永寺に飢饉供養碑を建立したものと推量されます。
津軽地方の天明大飢饉の惨状を記した日記を故豊島勝蔵先生が解読され、昭和五十五年「津軽の飢饉史」として出版されました。この本から惨状のほんの一部を紹介し、飢饉供養碑の解説とさせていただきます。
天明二年秋「田畑不作、郡内平均四部作」、天明三年旧二月八日「岩木山噴火、世人恐怖。」、旧十月「愛児を殺して食う者もでる。道路の犬、人肉を食い朱に染まり歩行する。その犬を餓人が刀をもって切殺して食う。当月中の餓死倒死者三〇八七人。」、旧十一月「死骸は犬や鳥の餌となり、大路小径に死人のない所はなく、白雪は紅に変じ、臭気は大道にふんぷんしている。犬は人を食いなれ、夜中往来の人に犬がつきまとう有様であった。当月中の飢倒死人三六二二人。」旧十二月「極寒、雪降り。百石町川端所々橋の下には死人の薦包が畳々と積み重なっているし、その死骸を犬鳥が引き出し、臓腑を破り、眼を抜き、黒色の鳥が赤い鳥のようであり、犬の面はことごとく赤く、家々の門前へ人の手足または首を引いてくる。その有様を、初めははなはだ怖しく、いやいやしく見ていた人も、後には見慣れ過ぎて、小児もこわがらずに忍び廻り、夜中往来も薬王院その外の薮の内には死人の上を渡り歩くほどになった。楽田、家調、繁田辺の下通りの者は人の肉を食った。出崎の源次郎女房は、十四五歳の男子が餓死したのを女二人で四五日間食ったそうだ。」等々。
豊島先生の序文から引用させていただくと、天明三年の大飢饉は、「津軽一円皆無作、藩の執政者たちによる失政、疫病蔓延、全国的な飢饉のため救米もなく、死者無慮十万人といわれ、餓死者累々として道をふさぎ、云々」
