法永寺史《その三十三》〜法永寺等身大鬼子母神の作者〈仏師森英之進氏〉ついて 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成30年11月1日号掲載)
先ずは鬼子母神像造立の経緯について述べたいと思います。
都市計画(何時どういう状況で計画が始まったのか、その詳細について資料不足で今のところは正確なことは分かりません。後日機会があれば述べたいと思います。)で昭和三十二年に法永寺が寺町より末広町に移転すことになり、境内地北側にあった樹齢三百年以上と言われる銀杏の大木を伐採することになました。
三百年以上も法永寺と共に歩んできた樹ですから、末代まで法永寺の為に残したいということで、法永寺三十三世一道院日浄上人(小山田鳳隆・平成八年十一月七日遷化)が鬼子母神を制作することを発願し、その制作を森英之進仏師に依頼、なお、尊容は大本山法華経寺の祈祷本尊の鬼子母神とすることとして発注。昭和三十二年制作資金を勧募、昭和三十四年三月二十四日、開眼式(かいげんしき)厳修。尊像の底には、開眼年月日と開眼主の日浄上人名と花押、左側に森英之進大仏師と銘記されています。
平成九年、法永寺三十四世一乗院日珖(小山田顕裕)の発願による本堂・会館・庫裡・稲荷堂の全面新築が成り、鬼子母神の御厨子(おずし)を発注、本堂左側に安置、その中に鬼子母神を奉安しました。御厨子(おずし)内の大尊神の前には、大尊神の原型となった総髪(そうはつ)、合掌、立像、鬼形の小型の祈祷本尊鬼子母尊神を奉安しました。
さて、本題の仏師森英之進氏についてでありますが、森氏は明治五年(月日は不明)に弘前市に生まれ、十四才で神仏彫刻家奈良喜三郎の門に入り八年間修業。その後、前田常三郎に師事し研究を重ね抜群の才能を発揮しました。
明治三十四年に五所川原に移住。一般美術の彫刻にも精進し、昭和四年から連続国際美術展に入選しました。剣道四段で後進の指導にも熱心でした。五所川原立佞武多の製作にも携わったということですが、残念ながらそれを示す資料が見当りません。しかし立佞武多の立体像には彫刻家の関与を感じ取ることができるということです。例えば、直接制作に携わらないまでも、設計とか、現場指揮とかがあったかも知れません。
鬼子母神を制作した場所はどこかと五所川原市在住のお孫さんにお聞きしますと、恐らく市内布屋町の現東奥信用金庫の場所に住居が在ったので其処であろうということでした。同じ町内の森時計屋さんは仏師の弟さんだということです。
彫刻した鬼子母神を中心に左側には法永寺総代山谷満広氏、右側には仏師の弟保氏が写った記念写真があります。撮影年月日は不明ですが、昭和三十四年三月に開眼式を厳修していますから、恐らく昭和三十四年の一月か二月ではないかと思います。三十三世日浄上人は日蓮宗大荒行堂に昭和三十三年十一月に入行、五行を成満し、出行したのは昭和三十四年二月十日ですので、完成の知らせを受けて住職の代わりに総代が検分に行ったものと思います。
仏師は、昭和三十三年八月二十五日に逝去されておりますが、鬼子母神像完成後の逝去か、未完成の状況での逝去か不明です。もし未完成であったとすると、彫刻の心得のある保氏が最後の仕上げをしたかもしれません。
十数年前でありますが、仏壇仏具のお焚き上げを依頼されて偶然にもその中から森仏師作の日蓮聖人像(立像)を発見、その後作品として応接間の飾りケースに保管しておりましたが、平成三十年正月、感ずるところがあり、お厨子を調え、開山堂に奉安いたしました。お参りの際は祖師像に合掌お題目をお唱え下されば幸甚であります。
