法永寺史《その二十三》〜法永寺移転の時期について 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成25年8月5日号掲載)
法永寺が寺町より現在地に移転したのは何時ですか?と問われることがあります。私は「昭和三十二年だと思います。」と答えるようにしています。しかし、もう五十五年も昔のことですから、今になっては記憶も曖昧で何月何日に移転しましたと明確に答えることはできません。
昭和三十二年の春に私は高校に入学しましたが、入学時の四月はまだ寺町に住んでいたような気がします。末広町の仮の粗末な住宅に移ったのは五月末頃ではなかったかと思います。平浪家の一部解体前の写真や現在地の本堂等建築工事の写真は三十枚弱残っておりますが、残念ながら写真には撮影日が印字されておらず日時の特定ができません。
このような状況ですから、年月を特定する方法として残されたのは移転の為の各省庁への届出書等を参考にするということです。各省庁への届出書等に添付した《法永寺移転理由》には「法永寺移転問題は、昭和十九年五所川原大火直後に話が出たのであります。町役場では、町の真ん中に寺及び墓のあることは風致上公衆衛生上及び町発展上好ましからずとされておったのであります。その期を得ず今日に到ったが昭和三十一年六月市当局が都市計画委員及び商工会議所幹部学識経験者等三十名を以て五所川原市商店街整備都市計画審議委員会を設立し第一次事業として法永寺移転を計画したのであります。条件として一、新敷地二反一畝十九歩(約六五一坪)斡旋。土盛及び墓移転。二、旧敷地売却斡旋。等により移転することに決定。法永寺としては総会を開き、別紙議事録の通り墓及び寺の移転を決定したのであります。」とあります。「風致上公衆衛生上及び町発展上好ましからず」とは、市或いは商工関係者の何と自分勝手な言い分でしょうか。腹立たしい限りであります。しかし、法永寺住職役員としては法永寺を建立したいという一心から已むに已まれずこの案を受け入れたものと思います。移転すべきか止まるべきか師父もさぞ悩んだことでしょう。
日蓮宗代表役員増田日遠より境内地及び墓地区域変更の承認がなされたのは昭和三十一年十月二十日で、知事の農地転用許可が下りたのは昭和三十一年十一月二日、墓地経営許可が下りたのは昭和三十一年十二月一日、また五所川原市長の遺骨改葬許可が下りたのは昭和三十一年十二月十四日でした。また、日蓮宗代表役員より本堂、庫裏、書院の新築承認がなされたのは昭和三十二年八月二十九日でした。これより推するに、農地転用許可が下りた後に土盛等が行われ(昭和三十一年十一月初旬から十二月中旬頃までか?)、盛り土を一冬寝かせた後、昭和三十二年三月彼岸過ぎから墓の移転工事に取り掛かったのではないでしょうか。
本堂等の建物は新築承認後でなければだめですから工事に取り掛かったのは昭和三十二年九月からだろうと思います。本堂等の新築の前に五月末頃には寺族が住む仮の住宅(寺町の庫裏の一部を移築)が建てられ(現在の本堂の裏手堰渕)寺族が移り住んだように思います。曾祖母はこの年の十二月二十九日、まだ完成していない本堂に向かって右側の庫裏の一室で八十七歳の生涯を閉じました。この頃の詳しいことは次回に述べますが、大まかには、寺町より現在地に移転したのは昭和三十二年ということで間違いはないと思います。次回に続く。
