法永寺史《その三十二》〜法永寺の梵鐘について(2)〜 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成30年6月5日号掲載)
前回は、法永寺の梵鐘の改鋳について述べました。それは、弘前新聞の大正十年八月六日号の記事で判ったことでした。この改鋳された梵鐘は、一七四七年三月、法永寺第四世日盛代に、飛島五郎兵衛が一門先祖法界萬霊供養の為に寄進した梵鐘(五所川原町誌二〇三頁)であろうと推測されます。
その梵鐘の大きさは、高さ四尺三寸五分、直径が二尺二寸五分、厚さ二寸、目方百四貫八百目でやや小ぶりの梵鐘でした。治工は大阪の松井新三郎という人でした。五所川原町誌の口絵「隆光山法永寺」の写真の鐘楼堂に梵鐘が吊り下がっているのが確認できます。この写真は、定かではありませんが、五所川原町誌が発行された昭和十年頃に撮影した写真だろうと推定されています。ということはこの写真の梵鐘は、これが大正十年改鋳の梵鐘ということになります。
何故改鋳されたのでしょうか。私は、三十歳代頃から法永寺の歴史に興味を持ち、檀家や法永寺と縁のある古老に法永寺の歴史に関することを聞き、断片的ですがメモしておりました。そのメモはかなりあり、整理もせずに他の資料と共に乱雑にダンボールに詰め込んでおりました。前回、梵鐘について記すに当たり、梵鐘についてのメモを探しましたが見つからず、この度奇しくもそのメモを見つけることができました。それには「梵鐘に皹(ひび)が入り鳴らなかったので改鋳した」、「改鋳した場所は乾橋の南側の岩木川原」、「すごく熱かった」、「その場に立ち会った人たちは金の指輪や銀のカンザシ等を炉に投げ込んでいた」と記していました。メ
モの端に宮本さんと記していましたが、何故かこの宮本さんについての記憶がありません。前回、馬場で改鋳と記し、その馬場については何処か不明でしたが、このメモによって判明できました。また改鋳の理由も判明できました。子供の頃乾橋の南側の川岸には数頭の馬が繋がれていて、その馬を洗っているのを見かけたものでした。
またこの辺りの川岸には、砂上げの川舟が何舟も係留されていました。水泳ぎは、今のようなプールもなく岩木川しかありませんでしたから、毎日のように通う私たち子供等の遊び場として、その辺の状況をよく覚えております。
昭和十六年七月には、アメリカ等の日本資産凍結措置があり、アメリカ等との関係が危うくなり、九月には戦争準備を整えやがて開戦へと突入して行きます。この年の八月三十日に金属回収令が公布、同年九月一日に施行されました。この回収令によって法永寺の梵鐘も応召された訳ですが、応召された年月日は定かではありません。先ほどのメモには、十七年~十八年と記していました。
何にしましても、この梵鐘は昭和十七年か十八年には応召され残念ながら戦車の材料や鉄砲の弾になってしまった訳です。昭和二十一年十一月二十三日の五所川原大火により法永寺は全焼してしまいましたが、焼け跡からは梵鐘は発見されていません。応召されたのは確かでありまして、もし応召されていなかったとしたら、焼け跡から梵鐘が発見され、その焼け焦げた梵鐘が今に伝えられているはずであります。
