法永寺史《その二十七》~昭和二十五年頃の野藤上人、黒滝上人の思い出 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成26年11月1日号掲載)
前回に続き寺町時代の法永寺について触れてみたいと思います。
二十五年九月頃、私が小学校三年(当年十歳)の時、師父(三十三世)の許で修学するために鶴田町の黒滝さん(昭和八年七月生まれ。当年十七歳)が法永寺に来ました。
大火で全焼した後の粗末な本堂兼住宅で父母、曾祖母(トヨ明治四年生まれ。当年八十歳)、私の弟(博小学一年)、妹(和子三歳)それにまだ一歳の弟(隆)の七人家族と黒滝さんの計八人が暮らすことになりましたので可なり窮屈な生活状況でした。住宅に隣接して三十二世の後妻樋口サキさんの仮住居がありましたが思い出がありませんので省略します。
大火後四年目、それにまだ敗戦の影が残っている時代でしたから、八人の家族を養う父母の苦労は並大抵のものではなかったと思います。本堂(御宝前側十畳間+前方十畳間の内玄関前は板敷き)の両脇にそれぞれ二間(各八畳間?)あり本堂右側の和室は父母の部屋で、手前の和室には箪笥等家具が置いてあったように思います。本堂左側の奥の和室が祖母の部屋で、その和室に曾祖母と私と弟妹が寝ました。和子は曾祖母と一緒に、私や博はその隣に布団を並べて寝ていました。手前の部屋が板の間で流しやトイレがありました。風呂はありませんでした。
野藤さんと黒滝さんは本堂御宝前の前に寝ていました。野藤淳亮さん(明治三十二年生まれ。当年五十二歳・お経が上手で僧侶としての行軌作法のしっかりした方でした。病気で両足脛を切断、皮製の義足を履いていました。昭和五十二年三月二十一日逝去、行年七十九歳)は、ずっと以前から法永寺の手伝いに来ていた方で、ご長男は三十二世の弟子で後に大曲市覚善寺の住職になりました。住宅は市内漆川でしたので通いも出来たと思いますが法永寺に寝泊まりすることが多かったようです。野藤さんは毎晩義足を枕元に並べて寝ていました。私はその両足の義足が気持ち悪くて近づくことも出来なかったように記憶しています。私や弟妹は野藤さんのことを「オドチャ」と呼んでいました。
この頃の思い出を黒滝さんに聞いてみました。曖昧なところが多く正確さに欠けるようにも思いましたが一応記録しておきたいと思います。
夕食は折りたたみ式の丸いテーブルで野藤さんも入れて九人(一歳の隆を含む)で一緒に食べることが多く、師父の晩酌は焼酎だったそうです。師父は映画が好きで月に一回は家族皆で映画を観に行ったようで(私には家族で映画を観た記憶がありません。)、黒滝さんの記憶では誰かをおぶって行ったということです(和子か隆かどっちかでしょう)。誰かをおぶって行ったということですから本当かも知れません。
黒滝さんは坊さんになるのが嫌で中学を卒業すると直ぐ知り合いの農家の手伝いに行ったそうです。そこで一年程働き、酒やタバコを覚えたということです。しかし法永寺では師父の前で酒やタバコを飲む訳にもいかずそれは苦しかったということです。
ある時、師父の留守の時、掃除中に一升瓶を見つけたのでその一升瓶に口を付け一気に飲んだらそれが酢であったということ。喉が焼けるような七転八倒の苦しみだったそうです。十七歳で強制的に法永寺の小僧に出された訳ですからさぞ辛かったことでしょう。
師父や有縁寺院の勧め等もあり、昭和二十七年三月法永寺を辞し上京、堀之内妙法寺の随身となり夜間の堀之内高校、夜間の立正大学を卒業し、日本橋の身延別院等に務め、父親(正法寺住職日教)遷化後、昭和三十六年九月に正法寺の住職になり名を日静と改め、寺観を一新する等々為宗為法に精進し現在に至っております。
