法永寺史《その二十六》〜寺町の法永寺は子供の遊び場だった 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成26年6月5日号掲載)
前回に続き寺町時代の法永寺について触れてみたいと思います。
法永寺は寺町六十六番地にありました。もう少し正確にいいますと北緯四十度四十八分三十九秒、東経百四十度二十六分二十七秒の場所であります。そこに山門と板塀、山門の西袖塀内側に鐘楼堂、そして山門正面には茅屋根の本堂、その東側に棟続きの庫裏がありました。昭和十六年九月一日に金属類回収令が施行されるまでは、その鐘楼堂には鐘楼がありましたが、回収令が廃止される昭和十八年八月十二日までの間に鐘楼は回収され(年月日不明)、鐘楼堂だけが残ったものと思います。
まだ記憶に新しいことですが、五所川原は二回の大火に見舞われました。一回目の大火は、昭和十九年十一月二十九日午前零時三十分ころ上平井町木工所から出火、風に煽られた猛火は七百二十三戸を焼き尽くし翌日の午前六時ころ鎮火しました。この大火で周囲が焼失したにも関わらず不思議にも法永寺は延焼を免れ、「神仏のご加護があった」と町中の噂になったということです。大戦末期の物資不足の時でしたから被災者の苦労は大変なものであったろうと思います。
追い打ちを掛けるように、昭和二十一年十一月二十三日午後七時三十分ころ錦町の一角から出火、強風に煽られて火勢が拡大し、翌日午前三時ころまでに八百十四戸を焼き尽くし鎮火しました。
この二回目の大火で法永寺の庫裏本堂等が全焼しました。私はまだ五歳でしたので当時の状況は定かではありませんが、未だに記憶に残っているのは、道路が熱風の通り道となりその中を熱い熱いといって岩木川の河原に避難したことと、母の実家のお祖母さんが持ってきてくれたおにぎりの美味しかったことぐらいです。 下って小学校二、三年ころからのことはよく覚えております。その当時は法永寺境内が子供たちの遊び場でした。親たちは「こら!おめだぢここさいれば邪魔だ!、寺さ行って遊んでろ!」と怒鳴っていたものです。
焼け残ったのは題目石と墓石と境内北の奥にあった銀杏の大木だけでした。その銀杏の大木も半分ほど焼けてケロイド状になっていました。境内地中央が少し高くなっていてそこに本堂の基礎石が残っていました。全て格好の遊び場でした。特に身の軽い子供たちは銀杏の木に登り、そこにまるで鳥が巣を作るように小屋を作り、そこから下にロープを垂らし、上り下りしておりました。
この銀杏の大木で作ったのが法永寺本堂に奉安されている等身大の鬼子母尊神であります。子供たちが小屋を作っていた辺りが鬼子母尊神の頭辺りだったかも知れません。ロープを揺らし「アーア・アー」といって蹴飛ばした辺りがお腹だったかも知れません。
それぞれの遊びにはいろいろ危険が伴っておりましたが、子供たちは各自で気をつけながら工夫を凝らし遊んでいたような気がします。何せ親はその日その日の生活の糧を稼ぐことだけで精一杯、子供たちに構っている暇などなかった時代ですから子供たちは子供たち自身で自分の身を守らなければならなかったのです。
子供たちの遊びに関しては大目に見ていた父(三十三世)ですが、墓で遊ぶことだけは禁止しておりました。しかしズルスケの子供たちは墓の竿石の上に登ったり竿石を揺らしたりしてまともに見ていられないほど危険極まりない罰当たりな遊びをしておりました。〜次号へ続く
