法永寺史《その二十八》~昭和二十八年~昭和三十一年頃の対馬敏文さんの思い出 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成27年3月8日号掲載)
前回の記述で誤りがありましたので先に追加訂正し、続けて対馬さんについて述べたいと思います。前回「本堂左側の奥の部屋が祖母の部屋で・・手前の部屋が板の間で流しやトイレがありました。」と述べましたが、対馬さんの記憶によると、「手前の部屋は畳敷きで、その左側(西側)が東西に長い板敷きとなっていて、東の奥の方、北角にトイレがあり、西手前の方に北に面して流しがあったということです。そして、流しの西側に土間があり、それが勝手口となっていたということです。そう言われればそのような気がします。
また本堂兼住宅の南西に井戸小屋があったということです。この井戸については私もはっきりした記憶があります。木の上の巣から落ちたカラスの赤ちゃんを拾って遊んでいたら数羽のカラスの総攻撃に遭って頭を突かれ出血し、やっとのことで逃げ込んだのが井戸小屋でしたから痛みを伴う記憶と言うところで先ずは間違いありません。追加訂正しお詫び申し上げます。
ただ、対馬さんが来た時には、すでに樋口サキ(三十二世後妻)さんがおりませんでしたので、昭和二十六年前後に北側に隣接して住んでいた樋口さんの住宅を解体すると共に、一部を改造し利用した可能性があります。しかし、その辺のところは全く記憶にありませんので住宅の間取り等についての詮索はこの辺で筆を置きたいと思います。
さて対馬敏文さんですが、弘前市出身で、幼少のころ父を亡くし、その後に母も逝き、叔母さんの許で暮らしておりました。その叔母さんは、毎年欠かさず身延山にお参りし、もちろん家に在っても朝夕にお題目を唱えるという熱心な日蓮宗信者でありました。対馬さんが中学卒業する頃、伯母さんは対馬さんを坊さんにしたいということで、菩提寺の弘前市本迹院ご住職に相談されたようです。そのようなことがあって本迹院ご住職の紹介で私の師父の許に来たようです。
対馬さんは昭和二十八年三月に中学を卒業し、その年の四月に法永寺に来ました。年齢は十六歳でした。そして昭和三十一年二月頃まで師父の許で修業することになります。本堂や各部屋の掃除、境内の掃除、草取りは勿論、お経、仏事所作、塔婆の書き方等々を学びました。十六歳~十七歳頃の自由を謳歌したい対馬さんにとっては辛い毎日であったろうと思います。
一月の寒中には師父、檀信徒と共に団扇太鼓を叩きながら寒修行もしていました。師厳道尊、行学に励みましたが、生来の物造りへの夢が絶ち切れず、期するところがあり、昭和三十一年三月に上京、東京の専修技術学校に見事合格、卒業後土木系の会社に就職、働きながら各種国家試験に挑戦、忍耐と努力の甲斐あって、都市計画宅造設計、測量、建築施行管理一般、土木施行管理、消防設備点検、造園工事、管工事、屋外広告士、浄化槽設計等々の各種資格を取得しました。帰青後、昭和五十四年三月に三戸郡五戸町にエンジニアリング八州コンサルタントを結成、その後事業も順調に進み、昭和六十一年八月に有限会社八州コンサルタントを設立しました。
紙数の関係で話は法永寺に戻りますが、平成四年七月二日、私は、師父から法灯を継承し住職になりました。その時、私は法永寺全面新築の大願を発てました。そして平成五年の春に総代役員各位にその旨を伝えました。その事業費は概算三億円ぐらいになりますので総代役員の皆様にはなかなか賛同いただけないのが実状でした。実現が危ぶまれる程の大事業でしたので責任の重さを感じ辞任される総代さんもあり、なかなか順調には進みませんでした。
このような困難な状況の中で総代としてリーダーとして力になってくれる人はいないものかと思案しておりましたところ、ふと閃いたのが対馬敏文さんでした。平成五年十月ごろ、私は早速連絡を取り五戸の対馬さんの自宅に駆けつけ現在の状況を説明して総代就任の依頼をしましたところ、「力になりましょう」と快諾してくれました。
紙数の関係で詳細は省略しますが、対馬さんの協力により、その後、事業が順調に進み、結果的には檀信徒皆様の賛同を得て四億三千万円の大事業を円成することができました。法城を築くため率先して物心両面に亘り協力してくれました対馬敏文さんにはこの場をお借りし衷心より深甚なる感謝を申し上げる次第であります。
