法永寺史《その四十》〜師父(三十三世日淨上人)の誕生の地を訪ねて・・その四〜 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/令和3年6月1日号掲載)
今回は、前回《その三十九》の補足的なことを述べたいと思います。
令和二年に始まり、令和三年になりましても、コロナウイルス感染者が全国的に拡大しておりますし、北海道の感染者も増加傾向にありますので、残念ながら、しばらくは函館へは行けないと思います。令和四年の春には行きたいと思いますが、それまでにコロナ感染が治まるかどうかは判りません。現況は、「三密を避ける」とか「不要不急の外出は控えること」とかで、どこへも出かけられない巣籠りの状況下ですから、この際、師父の残した書類でまだ目を通していない物もありますので手を付けてみようと思いました。思い立ったが吉日で、本年五月、風呂敷や段ボール箱に手を付けてみました。やはり吉日でした。尋常小学校の卒業證書や祖山学院(身延山)の卒業證書等々が見つかりました。かなりな枚数ですが、年代順に見て行きたいと思います。
先ずは、大正十年三月二十三日付の北海道函館区幸尋常小学校第一学年の修業證書です。同時に「出席精勤ナリ」、「成績優良ナリ」の褒状をももらっています。次に、大正十一年三月二十四日付で、同学校より、第二学年の修業證書をもらっています。次に、大正十二年三月二十三日付で、函館市常盤尋常小学校より第三学年の修業證書をもらっています。次に、大正十三年三月二十三日付で同学校より、第四学年の修業證書をもらっています。次に、大正十四年三月二十三日付で、同学校より、第五学年の修業證書をもらっています。次に、大正十五年(十二月二十五日より昭和元年となる。)三月二十三日付で、同学校より、「尋常小学校ノ教化ヲ卒業シタルコトヲ證ス」の卒業證書をもらっています。
明治十九年四月九日の小学校令により尋常小学校(修業年限四年・義務教育)と高等小学校(修業年限四年・義務教育ではなく程度の高い初等教育)が設置され、昭和十四年頃までこの制度が続くと理解していましたが、師父の場合は、尋常小学校を六年で卒業したことになります。どういう経緯か判りません。次に、昭和二年三月二十四日付で、弥生尋常高等小学校より、高等小学校第一学年の修業證書をもらっています。次に、昭和三年三月二十四日付で、同学校より「高等小学校修業年限二箇年ノ教科を卒業シタルヲ證ス」の卒業證書をもらっております。
小学校が、入学時は《幸尋常小学校》で、三から六学年は《常盤尋常小学校》と変わっておりますが、この点の経緯はよく分かりません。幸尋常小学校と常盤尋常小学校が統合した経緯もありますが、最後は弥生小学校に落ち着くようです。現在の立派な弥生小学校の前身は、明治十五年に新築した、師父の本籍地に在った《天神学校》でした。(完成後に、隣接の坂の名を冠して《弥生小学校》と改称されました。)修業八年で卒業しましたから、今で言えば、中学校二年終了に相当するのでしょうか。
次に、法永寺史《その三十九》で触れました工業学校の件ですが、その時点では正確な名称が不明でしたので、単に工業学校といいましたが、今回證書が見つかりましたので、はっきりした名称が分かりました。その名称は「北海道函館市函館商工実修学校」でした。昭和五年三月二十二日付で、函館市函館商工実習学校より、「本校ニ於テ工学部本科機械科第一学年ノ課程を修業セシコトヲ證ス」の修業證書をもらっています。
次に、昭和六年三月二十二日付で、同校より、「本校ニ於テ工学部本科機械科二箇年ノ課程ヲ卒業セシコトヲ證ス」の卒業證書をもらっております。函館市函館商工実修学校には、昭和四年四月に入学していることになりますが、高等小学校を卒業した昭和三年三月以降、昭和四年四月までの一年間は何をしていたのでしょうか。不明です。
以上、工業学校卒業までの記録を述べさせていただきました。次回は、在家から出家へ、僧侶としての修行等について述べたいと思います。(法永寺院首日珖 記)
