法永寺史《その十九》 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成19年6月15日号掲載)
〈ぎんなん〉で法永寺史について記述したのは、平成六年七月発行の第二十八号、法永寺史《その十八》が最後でした。調べましたところ、その後の〈ぎんなん〉では法永寺史についての記述はありません。もし見つかったとすれば、後の編集者におかれましては、本号の《その十九》を、それに従って調整して下さいますようお願いいたします。
さて、《その十八》では、伏見稲荷社の愛染寺初代住持の天阿上人について述べております。そして、〈次号へ〉で終わっております。
平成六年は、法永寺新築事業スタートの年であり、この年の八月二十一日には檀家総会で事業計画案が正式に承認されました。当初の予算は、《寄付予定額調》の合計額を基礎にした「三億八千五百万円」でした。このような大事業スタートの年でしたので、以後、心のゆとりもなく諸般の事情もあり〈ぎんなん〉に法永寺史を記述はすることは途絶えました。
歴史を書く場合は、時間の前後に拘らず、先ずは身近な資料をもとに手当たり次第に纏めて置くことが大事ではないかと考えています。
今回は、法永寺史とは直接関係ないようなものですが、私が五所川原小学校のPTA会長として活躍したこともあったということを、昭和五十八年九月十日発行の「五所川原小学校百十年史」の〈「五小百十年史」の発刊に寄せて〉を全文掲載し、史資としたいと思います。
〘この「五小百十年史」の発刊をもって、百十周年記念事業の総てを完遂することができました。記念事業の実施に当たり、温かい励ましとご援助を下さいました総ての方々、この事業に積極的にご参加下さいました総ての方々、企画、運営、執筆に携わった総ての方々に深甚の敬意と感謝の意を表します。優曇華の花は三千年に一度しか咲かないと言われますが、私は幸運にもその花に巡り会ったような、そんな気がいたします。事業遂行の中に多くの方々の「逞しい意欲」と「豊かな思いやり」に触れ、心を一つにした時のエネルギーの偉大さを知りました。
私事で恐縮ですが、昭和十六年、私は寺町の法永寺で生まれました。背が高い田茂と大木の銀杏と本堂の屋根の宝珠は、法永寺の象徴のようなものでした。田茂の木は、私が生まれる四年ほど前に、今の言葉で言えば公害=カラスが道行く人に糞を引っ掛ける=のために伐り倒されました。宝珠は昭和二十一年の大火で本堂と共に焼失しました。銀杏は、昭和三十二年、法永寺移転の際に切り倒され、森英之進氏作の五尺の鬼子母神となって法永寺に安置されております。
昔、法永寺の直ぐ西側が土手で、それに沿って雑木林があったそうです。毛内林とか権太林と言われるのがそれだと思います。記録を見ますと、毛内林には、田茂や柳や胡桃の木などが六千三百本も繁茂しておりました。その後それらの樹木が伐採されて、そこに住宅が建ち、村が町となり市となって発展しました。その代わり、薫風とか緑陰とか木下闇という言葉の生命が失われました。
児童の皆さん、皆さんが大人になったら市の到る所に木を植え林を造って下さい。そして、その中で子供たちをウサギやキツネやタヌキと一緒に遊ばせて下さい。そうしたらきっと、その子供たちも大人になったら林を造ることでしょう。そして、その子供たちの子供たちを林の中で遊ばせることでしょう。その林の中で遊んだ子供たちは、自分の幸せだけでなく生あるもの総ての幸せを考える大人になるでしょう。そうなることを祈って発刊の挨拶といたします。〙
