法永寺史《その二十》 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成24年11月1日号掲載)
法永寺史を書き始めたのは昭和六十三年八月八日発行の「ぎんなん」第三号からで、途中紙面の都合で八回ほど休みましたが、「ぎんなん」第二十八号に《その十八》を記載、その後、法永寺全面新築事業等があり多忙に任せ「ぎんなん」第百号まで法永寺史の記載を中断してしまいました。第百号の「あとがき」に記しましたように、百一号からは、「ぎんなん」編集を全て副住職に委ねることにしましたので、重荷を降ろしほっとしていたところに、副住職から法永寺史を連載して欲しいという要望がありました。少しばかり億劫でしたが、「ぎんなん」発刊当初に連載した法永寺史が《その十八》以降中断していることもあり、途中で投げ出す訳には行かないだろうという変な義務感みたいなものも感じ、法永寺史を連載することに致しました。
私ももう後期高齢者、何時この世とお別れすることになるか分りませんので先ずは、私が今書いておかなければ恐らく後世その由緒が分らなくなるだろうという事から書き始めたいと思います。当山稲荷堂の中央の稲荷大明神に向かって右側に薬師如来を祀っております。この薬師如来の由緒について書いてみたいと思います。
小さなお厨子に薬師と記し、お祀りしたのは師父で、その御本体は黒い金属製の小さな牛で、大きさは、横たわった頭部から尻尾までの長さは約九センチ、基壇に接する腹部から背骨までの高さは約三センチ、頭頂部までは約五センチです。お厨子の中に「牛頭天王」と記した木札があり、その裏に「昭和三十二年八月三十一日・正中山相承一道院日浄」と記してありますので、正確にはこの日から祀ったということになります。
さて、この金属製の牛の由緒ですが、私の母(すゑ)の母(新和村・永野さよ)が、正確な年月日は不明ですが、弘前駅で汽車を待っていた時に、見知らぬ毛むくじゃらのボロを着た男が近寄ってきて突然「これオメニやるから、大事にへ!」と言って白い布に包んだ物を手渡して、去って行ったそうです。直ぐに振り返って見廻しましたが、消え去ったようにもうその男の姿は見えなかったそうです。中を見たら真黒な金属製の牛で何が何だか訳が分らずただ茫然としていたということです。そのまま家に持ち帰りましたが、その牛をどのように扱ったらよいのかさっぱり分からず困惑したということです。
村の〈おがみや〉(霊媒・占い等をする人)に聞いたところ「これは病気を治す牛仏様でねべが?」と言ったそうです。そこで、近所に長年病気で苦しんでいる人がいるので、行ってその牛で撫でてやると不思議にも病気が治り、評判になり、病気で苦しんでいる人が次から次と尋ねて来て、その後何年経過したか分りませんが、多くの病める人を救いました。商売ではありませんので、祖母はお礼を一切受け取らなかったということです。評判を聞いた〈おがみや〉がその牛を譲ってくれと言って粘るのでどうにもならず譲ったそうです。
しかし、その後何があったのか知りませんが〈おがみや〉が牛を返しにきたそうです。理由を聞きましたが何も答えなかったということです。このようなこともあり、師父が身延山寒壱百日の大荒行第四行(四回目=四百日)を成満した昭和三十二年に、その不思議な牛が師父の許に来ることになり、牛頭天王と命名され開眼されることになるのです。
以上は、母から聞いたことを記憶を辿りながら記述したものです。母亡き今、詳細を語れる人は誰もいません。母が急逝するとは思ってもおりませんでしたので、結局は詳細を聞く機会を逸してしまったことになります。残念ですがもうどうしょうもありません。
