法永寺史《その三十八》〜師父(三十三世日淨上人)の誕生の地を訪ねて・・その二〜 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/令和2年8月3日号掲載)
前回、調査のため函館へ出発したのは六月初めと記しましたが、本年(令和二年)即ちコロナウイルス感染拡大中の六月ではなく、昨年(令和元年)の六月ですので、説明不足をお詫びし付記させていただきます。
六月十二日(水)午前九時頃、函館駅前の電停から函館ドック行きの市電に乗り、十五分ぐらいで終点のドック前に到着。潮の匂いと歴史と文化の香りのする古びた町でした。天神町は山手の方ですから、電停から直ぐの坂を上り、辺りを散策しながらゆっくりと歩いて行くことにしました。
坂には「魚見坂」という表示がありました。主な坂にはそれぞれ名前が付いていて地図上でざっと数えただけでも十四、五はあるようです。魚見坂の上り始めの所に「入舟児童公園」がありその一角に「新撰組最後の地」という記念碑がありました。これは、明治二年旧暦五月十五日に旧幕府軍が降伏した日、同じく新撰組もこの地で降伏したということを指すのだと思います。この坂をずうと上って行くと左角に廃校(小学校だと思います)があり、その廃校に沿って左側に進むと右側に大きなお寺が三ヶ寺あり、真ん中が日蓮宗実行寺でした。曽祖母はこの実行寺の世話人のような存在だったようです。
三番目の東本願寺系のお寺の前の坂(千歳坂)を下って行くと右側に「鯨族供養塔」があります。これは、昭和三十二年九月に遠洋捕鯨会社の捕鯨船船長の当時八十八歳の天野太輔が自分で捕獲した鯨の供養のために建立したものだそうです。その向側は西中学校で、少し下った所に十字路があり、その東西に伸びる道路の両脇が元の天神町、現在の弥生町ということです。その十字路から道路を東方に進んで行くと、また十字路(幸坂)があり、それを過ぎた右側に「天神町会館」(木造二階建て・外壁は緑色ペンキ)という建物がありました。町名が弥生町になりましたが昔の名前のまま残しているのでしょう。
そのまま右側を進んで行きますと、歩道に小さなテーブルを出し、茶飲み話をしている年配の男性三人がおりましたので声をかけてみました。その一人は町内会長でした。事情を話し、昔の天神町十九番地と一二七番地は、それぞれ弥生町の十四番地二号、弥生町十番地七号であることを話し、その場所は現在の何処であるか教えてもらうことにしました。親切に教えてくれまして、その場所は、市役所で教えてくれた場所と同じでした。天神町会館の中にも案内してくれました。町内会の名簿等の資料も調べてくれましたが、昭和四十年以前のものはありませんでした。
さて実際の場所ですが、師父の本籍地天神町十九番地は西中学校の北側、十字路から西側へ二軒目の家がそうでした。住居表示も弥生町十四番二号で間違いありませんでした。三軒目が空地で、四軒目は立派な土蔵で、売りに出されておりました。私の祖父(吉田正次郎・本籍は京都市・後に小山田トクの婿になる)の住所である天神町一二七番地は、西中学校の東側、十字路東南角の家がそうでした。クラシックカーを扱っている店のようでした。持ち主の住居は、北側角で、たまたま、見たこともないようなクラシックカーで帰ってきたところに遭遇しました。事情を話し、お店の番地を確認しましたが、弥生町十番七号にまちがいありませんでした。祖父と祖母の住居が大声を出せば聞こえるように近かったとは新発見でした。曽祖父次郎は北海のラッコ捕りが生業だということ、祖父の正次郎は船員だということですので海の縁があったのだろうと思います。
祖母が実行寺の世話人のようなことをして懇意にしていたということ、実行寺まで徒歩五分ぐらいの近さだということを知り、なるほどと納得しました。師父が函館日露漁業に勤務しながら、函館工業学校夜間部に通っていたということ、その学校の所在地や日露漁業会社の所在地等も調べたいのですが、今日はもう時間的にも遅く、フェリーでは帰りが遅くなってしまいますので、学校、会社の調査は後日に譲ることにして、新幹線で帰ることにしました。函館発十八時八分、新青森着は十九時四十四分でした。 (法永寺院首日珖・記)
