法永寺史《その三十六》〜三十一世妙心院日芳上人について〜 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/令和1年11月1日号掲載)
史料不足は否めませんが、日芳上人について精一杯纏めてみたいと思います。
当山の過去帳では、ごく簡単に「明治二十五年九月十八日感応寺より当寺へ入山、大正十四年旧十月七日入寂。宮本泰教」と記してあるのみです。
また、江利山義顕上人の纏めた「青森県日蓮宗寺院史」では、「上人は性を宮本、字を泰教と称し、文久元年正月八日弘前町宮本六右衛門の次男に生まれた。本行寺二十八世日凞の門に入り、明治二十五年九月十八日入山し、在職中に梵鐘を鋳造(*法永寺史三十一から三十二で述べました大正十年八月の梵鐘改鋳)し、開山堂(*開山上人以来歴代の上人を祀るお堂。現在の法永寺では大広間の二階が開山堂、及びお檀家さんの位牌堂となっております。)を建立して、紫金跡永聖跡に昇格した。大正十四年十一月二十二日遷化した。世寿六十八。」と記されています。
当山の過去帳に「感応寺より入山」とありますので、感応寺の寺歴を見てみますと、「二十八世妙心院日芳上人。満行院五世、法嶺院十七世、法永寺三十一世。」と記されています。
法嶺院の寺歴では、「大正三年入院し、同五年退院した。」と付記されています。日芳上人の師匠は、本行寺二十八世日凞上人ですが、青森県日蓮宗寺院史を見ますと、「明治八年四月十八日に本行寺に入山、四十年間在職し、大正三年九月二十二日退山、昭和二年十二月八日遷化した。世寿八十三。」と記されております。日芳上人の師匠でもある日凞上人は、宗門内外において活躍されたお方で、勝海舟とも親交があり、その御功績は大なるものでありますが、ここでは記述を省略させていただきます。
また、本行寺二十七世唯有院日住上人の説明の中に、「上人は、明治八年に退山し、晩年は法永寺日芳に給仕されて、明治三十年十二月二日遷化した。世寿九十二。」と記されております。
日芳上人が法永寺の住職を勤めながら日住上人に給仕したということは、本行寺を退山した後に法永寺に居住し、日芳上人の給仕を受けたのか?詳細は不明です。ただ、法永寺から本行寺に通って給仕するということは不可能だと思いますので、法永寺に居住して日芳上人の給仕を受けたと考える方が妥当じゃないかと思います。
その日住上人ですが、本行寺様の歴世概略を拝見しますと、「明治六年五月、庭前の池辺に黄龍現ず、六月当山に於いて雨乞祈祷感応ある。同十月西京本山本圀寺日禎貫頂教務奉命派出下向す。」とあります。当山三十一世の日芳上人と本行寺二十七世日住上人が弟子と師匠のような関係にあったということは興味深いことです。
さて、日芳上人ですが、当山に日芳上人の建立した石碑が二つあります。
一つは、明治四十二年六月二十四日に建立した清正公大神祇三百御遠忌の碑です。加藤清正は慶長十六年(一六一一年)八月二日没ですので、二年ほど前の三百遠忌奉行ということになります。
もう一つは、大正十一年四月二日に建立した開山隆光院日淳聖人歴代之諸上人の供養碑です。開山上人の右側に廿五世大雄院日宴上人、左側に卅一世妙心院日芳上人と刻字しています。何故開山上人の両脇に日宴上人と自分の日号を刻んだのか、その理由がよく判りません。石碑表面左下には、紫金跡開徳日芳と刻字しています。裏側中央には、開山宝永七年十月十九日、その右側に文久三年九月二日と刻字し、その左側には大正十一年四月二日、日芳建之と刻字しています。宝永七年は西暦一七一〇年で開山の年号でもないし意味がよく判りません。文久三年九月二日は日宴上人の命日なのかどうかこれもよく判りません。後日の研究課題としておきます。
なお紫金跡永聖跡について説明させていただきますと、これは、江戸時代に制度化された寺格制度の一つで、一代永聖跡と永代永聖跡の区別があります。恐らく日芳上人一代の紫金跡永聖跡であったろうと思います。永聖跡になりますと、一段格式の高い寺院となり、住職の僧階も上がり、法衣服に紫金欄を着用することができるようになります。これは、宗門のために大きな功績があったということで、住職並びにその寺院に与えられる名誉ある格式であります。以後これを機に法永寺も徐々に興隆して行くことになります。
