法永寺史《その二十四》〜昭和三十二、三年頃の状況について 法永寺院首日珖・記(寺報ぎんなん/平成25年11月1日号掲載)
前回は法永寺が寺町から現在の末広町に移転した時期について述べました。
昭和三十二年頃の現在地はまだ周囲が田圃で仮住宅の裏西側の堰は用水路で水が満々と流れておりました。私と弟(博・昭和十九年一月生)はその堰で雑魚捕りをしたり、田螺や烏貝を捕って遊んでいました。カエルも沢山いました。本堂正面東側の道路も未完成で砂利道でした。
水道も敷設されておらず本堂裏西側の旧道に面した民家に畦道を通って水をもらいに行っていました。私は手伝った記憶がありませんので、水貰いは恐らく母の仕事だったのでしょう。今思うと両親、取り分け母親は炊事洗濯等ではかなり苦労したことだろうと思います。
周囲は田圃だったので秋になるとイナゴが沢山飛び回り私と弟はそれを採り広口瓶に入れ勇んで母に渡したものでした。それは一日置いて糞尿を排泄させた後に、母の手で佃煮となり家族で食べたものでした。一番末っ子はまだ二歳半ぐらいで、まだオシメを当てていたようで、母はそのオシメを堰で洗っておりました。移転して一、二年は苦労の連続であったと思います。
昭和三十二年春に私は弘前高校へ入学し、伯母さん(母の姉)の家に下宿しましたので、日々の苦労の実感等はあまりありませんが、弟(博)や妹(和子・昭和二十二年一月生)は父の手伝いや母の手伝い等で苦労しただろうと思います。特に妹は母が軽い蜘蛛膜下出血で倒れた(昭和三十一年頃か?)こともあり直ぐ下の弟(隆・昭和二十四年四月生)の面倒や、末っ子(典弘・昭和三十年三月生)の面倒を看たり、又炊事洗濯等で大変だったと思います。母は生前和子には苦労をかけたと言っておりました。
前回述べましたが、昭和三十二年八月お盆過ぎには資材の運搬等が始まり、九月には本堂等の工事に取り掛かりましたので建築関係者の行交で騒がしくなりました。この頃に弟(博)は大工の使い走りをして大活躍をしておりました。昔の大工はよく〈砥の粉〉を使ったようでそれを買いに行くのが弟の役目でした。母生前の話ですが、大工が「博!」と呼べば「砥の粉がぁ!」と返事したそうです。干支と性格は何も関係ない筈ですが、申年生まれの弟は本当の猿のように身の軽い愛敬者だったようです。
工事の俊工、引き渡しは昭和三十三年で間違いないのですが、正確な月日が判りません。当時の山崎岩男県知事に登録税免除申請をして、免除に該当すると証明されたのは、昭和三十三年十月二十三日ですから、この時には既に竣工していたことになります。しかし、整備しなければならない細々した個所は一杯あったと思います。また、落成式を何時行ったかについても、今のところ資料がなく不明です。この次はこれらのことについて調べ述べてみたいと思います。
